人物事典
このページではサカつく2002及び04に出てきた選手たちに関して、どういう選手だったのかを紹介したいと思います。一応ウィキペディアの記述が中心になってきますので、もう少し詳しく知りたければ、そっちの方を見てください。(名前の規準は2002です。)
 国籍の後に*が付いている場合
 *=3以降は現役の選手で実名が出ている
 **=3から4以前に現役を退いている選手
 ***=04から5までの間に現役を退いている選手(それ以前が実名の可能性あり)
 ****=ドイツ・ブンデスリーガの選手。(ある選手がもめ事を起こしたせいで、5ではリーグ全体の選手の名前が出せない状態に)
 *****=その他

 新規に追加した選手には名前の所に赤。修正(誤字を除く)をした選手には名前の所に青の色を付けています。オレンジ字はこのリプレイ記に登場します。

ア行
 アモーディオ(BRA)*……アモローゾがモデル。2002の秘書が話しているとおり本当に日本においては残念な人だった。ヴェルディ川崎(今の東京ヴェルディ)の選手とした来日。しかし外国人枠の関係上でサテライトでしか出番が無かったが、そこではダントツの得点王。当時のヴェルディの2トップがカズと武田(実力も人気もある)だったから入る隙はなしという感じだったのが……(日本帰化まで考えていたという話もあるぐらいだし。これが残念な理由)
 結局Jリーグでは出番なしでブラジルに帰国。しかし彼の才能はブラジルに帰ってから認められ、ブラジルの選手権では得点王に。その後ウディネーゼに移籍してセリエAの得点王へ。パルマ移籍のあと、ドルトムントに移籍をしてリーグ優勝&得点王。選手として絶頂を極める。しかし極めたあとは坂道を転がるという典型がこの選手にも待ち受けていた。サンパウロでは世界一を経験するのだが、その後は鳴かず飛ばずの典型の選手に。一時期FC東京にはいるのではといわれていたが、ミランに呼ばれて破棄したことも印象を悪くしてしまった。ミランでは満足に出場機会を得られず帰国。
 アランセン(DEN)……アラン・シモンセンがモデル。165センチ58キロという肉体的ハンデを持ち前のスピードとドリブルで補った、デンマークを代表する選手。「小さな巨人」。地元クラブでの活躍がバイスバスラーの目にとまり、ボルシアMG(メルヘングランドバッハ)に移籍。移籍したネッツアーの変わりの中心線となりクラブチームの黄金期の主力選手となりフィジカルの弱点も克服。ヨーロッパ屈指のドリブラーとなり、リーグ3連覇に貢献。さらにはUEFAカップを制覇。77年のパロムドールを獲得する。その後はバルセロナ→チャールトンに移籍したあと自国のクラブに戻ってキャリアを追える。
 クラブシーンとしては最高の選手生活を送ったが、代表になると運が向かない選手になってしまう。ユーロ84では予選突破には貢献するが開幕戦で骨折をしてしまう、86年のワールドカップも1試合出場にとどまってしまうなど、とにかく運のない選手でもあった。引退後は地元のクラブの監督のあとに、フェロー諸島、ルクセンブルグという小国の代表監督を務めた。
 猪貝洋道(JPN)……礒貝洋光がモデル。Jリーグ開幕時のG大阪の中心選手で、そのパスセンスは日本代表の中心になるのではといわれていた。とにかくキックコントロールがすごく左右の足でそれぞれFKを決めたことも。ライバルである沢登正郎をして、「そのセンスは中田ヒデや小野以上」といわしめ、ラモス瑠偉に至っては「後継者」といわれていた。「10年早ければ」「10年遅ければ」栄光をつかめたかもしれないといわれている人物。
 帝京高校入団時から10番を背負い続ける。東海大学を退学してまでガンバに入団。そこで主力として活躍をする。そのパスを受けたいがために高校の後輩が進路にえらんだり、移籍希望をする人が出てくる。それほどまでに魅力的な選手だったが、代表レベルでは1試合しか出れず。97年位は浦和に移籍してボランチとしても活躍したが、翌年に引退。
 引退後はプロゴルファーになると言っていて、今ではゴルフのほうで活躍しているのだが、あくまでも自称の状態。沢登の引退試合ではマラドーナよろしくの肥満体型になっていて観客を唖然と指していたが、現役時代を彷彿とさせるテクニックは全く錆び付かず、逆に礒貝は健在という形を示していた。
 井鼻正輝(JPN)*****(2002では実名登録)……井原正巳がモデル。大学に入るまではFWだったが、大学時代にDFにコンバートしたことによって才能が開花。中山雅史(大学時代はセンターバック)とともにセンターバックのコンビを組んでいた。大学卒業後は日産自動車へ。そこでも中心選手として活躍するとともに、日本代表へ。そのプレースタイルから「アジアの壁」と呼ばれるようになる。
 Jリーグ開幕後はオウンゴール第1号という不名誉な記録を作るも、横浜マリノスの優勝に貢献。チームの若返り策の一環でコーチ就任をけって磐田→浦和の順に移籍。2002年のシーズンに浦和のチームメイト福田正博とともに引退。引退後は各地で活躍しながらS旧ライセンスを取得。柏のヘッドコーチに就任。監督の解任によって一時的に監督代行をしたこともある。
 日本代表では120試合以上出場して「ドーハの悲劇」も「ジョホールバルの歓喜」も経験。フランスワールドカップでもキャプテンとして3試合フル出場をした。日本サッカーが急速に発展していく中で、それに取り残されずに日本代表の中心として活躍出来たことは、日本サッカー界にとっては大きなプラスだった。
 浦和九(JPN)*****(2002では実名登録)……福田正博がモデル。こういう名前になったのは浦和一筋なのと背番号がエースストライカーの9だったことから。浦和が「Jリーグのお荷物」といわれていた時からの、浦和になくてはならない選手で「ミスターレッズ」という称号をつけられていた。それゆえか「J初ゴールのあとの悲劇」「涙のVゴール」「04年セカンドステージ優勝決定後のフクダコール」などエピソードも多い。
 元々は野球少年だったのだが、転校先の学校でサッカーの指導者と出会いサッカーを始める。中学時代にはすでに大物の名前に上がっていて、高校では国体の神奈川県選抜を優勝に導く大活躍をする。大学時代も活躍(ただしチーム内環境はあまり良くなかったらしい)したが、本人は安定志向を望みプロ契約ではない一会社員として三菱自動車に入る。
 しかしルーキーから大活躍をする。当時のエースだった原博実を病気で欠く上に二部落ちしていた状況だったにも関わらず、それを一年で引き上げる大活躍。これで日本代表にも呼ばれるようになり、代表レギュラーに定着。しかしポジションで言えば本来のトップではなく、右サイドバックだったり、2列目だったりする。オフト時代には「ドーハの悲劇」の時にピッチに立っていた11人のうちのひとり(途中出場)でもある。
 しかし、ドーハ以降はケガとの戦いに悩まされることになる。95年こそ得点王に輝くもそこから輝きを徐々に失い始める。さらに自分自身が中央にこだわるプレースタイルだったために歴代の監督と衝突してしまうこともあった。現役最後の2002年にはオフトが監督に就任。福田もそれまでのこだわりを捨ていろんなポジションをすることになる。これが浦和の躍進を支えることになり、ナビスコカップの準優勝につながるが、クラブシーンではタイトル一つとることも出来ずに、井原とともに引退。ミスターレッズ故にレッズ監督待望論が強く、本人もそのためにS級ライセンスを取得。現在は解説者として活躍中。 
 エレ(BRA)……ペレがモデル。サッカー史上最強の選手でニックネームは「サッカーの王様」。ワールドカップでは3度の優勝に貢献。あげた得点は1000点以上、さらにそのカリスマ性から未だにブラジル国民はもちろん、世界中での人気も高い。身長はサッカー選手の中では高くはないものの、それを補う強靭な強さと、テクニック。それを補うようなインスピレーション。いまのポジション的に言えばセカンドトップやアッタカー的な存在であったのだが、脅威的な得点力が備わっていた。また戦術的な柔軟さもあり、年齢ととものポジションを下げて言ったり守備にも参加をしていた。
 サントスに入団後はしばらくはフィジカル的な面もあり、1軍での試合には出ていなかったが、当時のエースの負傷で試合に出るようになり、ポジションを奪う。その後正式にプロ契約をしてレギュラーポジションを獲得。さらに同じ年に行われたワールドカップにも代表として選ばれ、ウェールズ戦で初ゴール。ハットトリックあり、絶妙なコンビプレーからの得点ありで優勝に貢献。新しい王の誕生だと賞賛される。
 62年の時には怪我をしてしまうも相手のフェアプレー精神によって、追い込まれることなく連続優勝をさらう。66年のイングランド大会の時には持っていた怪我が悪化。審判のレベルの低さや、ラフプレーの横行で敗退。一度はワールドカップからの引退をしたものの、70年に復帰。この時はストライカーではなくゲームメイカーに徹して強力攻撃陣をバックアップ。見事に3度目の優勝をもたらした。
 クラブシーンでもサントスに黄金時代をもたらすことになる。サンパウロ州選手権優勝10回、コパ・ド・ブラジル5回、リベルタトーレス2回、インターコンチネンタルカップ2回。さらに自身も得点王に11回に輝くなどまさにサッカーの王様にふさわしい活躍をする。サントス一筋と思われたが、晩年にアメリカ北米サッカーリーグのニューヨークコスモスに移籍。アメリカのサッカー普及に尽力をし、そのままアメリカの血で引退をすることになった。
 引退後は華々しい活躍と共に、それらに影がつきまとうことも。強盗に襲われたのは2回あるのだが、2回ともペレの名を聞いただけで逃げ出してしまった。しかし2回目の強盗の時にペレが車の中に載っていたとわかった瞬間運転手のものは返却されたのだが、自身のものは気づいてしまう前に持ち出されてしまった。さらに自身も3度結婚をしていて、さらには2番目の妻が離婚後にセナに近づいてしまったことから、仲違いの原因になってしまったという話も。さらに権力に擦り寄った(アベランジェとの協調路線)との批判もあり、現役生活と違い順風満帆と入っていない。
 さらに怖いのが「ペレの呪い」。これは彼が活躍できると信じて指名した選手がことごどく、伸び悩んでしまったり、指名したチームが優勝できないなどから、ペレが後押ししたチームは優勝を逃すというジンクスが出来上がってしまっている。犠牲になったチームはコロンビア・スペイン・アルゼンチン・フランス・メキシコ。唯一当てたのはドイツの時のイタリアだけで、さらにアフリカ勢が2000年までに優勝するという予想もしている。さらにロナウドを終わったと評したのだが、コリンチャンスで復活と、言う事すべてが外れてしまっている。
 岡本俊二郎(JPN)……岡野俊一郎がモデル。プレーヤーとしての活躍は大学どまり。(とはいえ東大)日本代表の出場経験もあるが、コーチとして大学時代に作った人材網をフル活用して対戦相手を研究。これがメキシコオリンピックの銅メダルにチームを導く。当時の監督も岡野の研究力を大きく買っていて、制限のあった枠をさらに一つ潰して選手として登録をしていた。
 その後日本代表監督の後、日本サッカー協会で重職を担うようになる。特に外交面での功績が大きく、日韓ワールドカップ誘致に成功をする。98年には日本サッカー協会会長に就任。ワールドカップを成功させた後に川淵三郎に協会会長職を譲って、自らは表舞台から降りた。現在は日本サッカーミューアムの館長。
 オキナガ(ECU)……アレックス・アキナガがモデル。現役時代の中心時代はメキシコのネガサで過ごしたことからその影響力は未だにクラブチームに残っている。南米屈指のゲームメイカーでその実力は、バルデラマに勝るとも劣らないと言われたほど。しかしそのバルデラマのいたコロンビアは94年のワールドカップで優勝候補と言われたぐらいメンバーに恵まれていたのに対して、アキナガは代表チームが弱小のエクアドルだったために代表シーンで名声を得ることがなかった。ようやく出場機会を得たといってもベテランに入った日韓ワールドカップのとき。不運といえば不運のゲームメイカーだった。
 遅野博樹(JPN)……早野宏史がモデル。現役時代は日産自動車でプレー。技巧派のFWとして木村和司・金田喜稔と日産ターボトリオと呼ばれる。現役時代の後は下部組織で指導者としての修行を積みJリーグ開幕時にはコーチ。そして95年にはマリノスの監督(これは最初の監督の体調不良での昇進。本人曰くそれをベースにしただけとのことで、成績時代もあまり良くはなかったのだが、ヴェルディの3連覇を阻止している)になるが、2年で退任。こののちNHKでのダジャレ付きの解説が評判となる。その後ガンバの監督をへてNHK解説者→柏の監督になるもチームを降格させてしまう。古巣の監督に返り咲いた時には、サポーターからの反対運動が巻き起こるものの、そのさなかでもチームを前年度よりも順位の高い7位にまで押し上げるが、1シーズンで辞任。(その後のゴタゴタを見ていると明らかにフロント力がおかしいのがわかるのだが)現在はNHKに戻って解説をしている。
 監督の特徴とすれば、負けが混んで解任論が進むと一気にチームが強くなる方向性が多く、また2007年の横浜時代ではハマれば驚異的な得点力で相手を粉砕トウこともあったのだが、全体的に言えばやや低調か。しかしガンバ時代の積極的に若手を使ったというのが2000年代後半のガンバの躍進のきっかけになったという人もいるので、評価としては定まっていないのが現状だったりする。とは言え若手起用で将来の主力に当てるというやり方は当たっているんだけど。

カ行
 ガッシュ(ENG)……ポール・ガスコインがモデル。愛称は「ガッサ」。体系はサッカー選手の中ではやや太めと言う独特な体型ながら、イングランド代表の中では卓越したテクニックを持ち合わせて、当時のパワープレー中心だったイングランド代表にワンポイントを与えられる貴重な選手だった。しかしその言動やアル中やDV問題など、言動の方も同時に注目されてしまい、結果的に、これが自らの身を押しつぶす結果になってしまった。
 ニューカッスルで頭角を現すと、トッテナムへ移籍。ここでリネカーなどとコンビを組みFAカップ優勝に貢献。しかし悪質なタックルを受けて一年間以上試合に出れず、ラツィオに移籍。ここでも抜群の存在感を見せる。レンジャーズに移籍をして98年のワールドカップ代表に頭角といわれたいたのだが、監督のホドルはここでガスコインを外してしまう。ここからガスコインのモチベーションが大きく下がってしまい、技術が錆びついてしまう原因に。おまけにアルコール依存から抜けられずトラブルも続発。チームを幾つか転々をして(中国のチームも含む)寂しく引退をしてしまう。
 しかしピッチを離れてもガスコインの名はいろんなところで顔を出してくる。飲酒トラブルをはじめ、精神病院へ強制入院、逮捕、さらにはホームレス化と何かと話題を振りまいている。(周りの虫を払えなかったのか原因と指摘されている)自活不可能な状態になっていているという寂しい話も。
 ガーニャ(ARG)……カニージャ(カニーヒア)がモデル。18歳でデビューを飾るとそのままヨーロッパへ。しかし持ち前の性格などの悪さでチームを続々と移籍を繰り返すため、代表でも実績とはかけ離れたものになっていってしまった。代表ではマラドーナの連携で多くの勝利をもたらし「マラドーナの恋人」と言われるほどの存在に。しかし素行までそのマラドーナに似てきてしまい、アメリカで靴屋の値札事件を引き起こし逮捕される。98年のワールドカップでは代表に選ばれなかったが、日韓ワールドカップではサプライズとして復活(ただしこの時はレンジャーズの一員として活躍をしていたことが認められていた)。しかし本番では出場試合時間0、レッドカート一枚という珍記録を作ってしまう。
 カペール(ITA)……ファビオ・カペッロがモデル。現役時代ではローマ、ユベントス、ミランと渡り歩きそれぞれの場所でタイトルを獲得。代表でもアウエィでイングランド破るゴールを上げるなど名選手の一人として名前が上がってくる。
 引退後は解説をしていたのだが、暫定的にミランの監督に就任。オランダトリオ、バレージ、マルディーニなどの有力選手が多数所属していたこともあり、ミランの黄金時代の継承者として4度のスクテッドに、チャンピョンズリーグ制覇1回という成果をつくりり上げる。その後レアルマドリードの監督に就任して、チームを優勝に導くも1年で解任。(理由は後述)低迷するミランの監督を1年務めたあとに、ローマの監督に就任。ここでの2年目(中田ヒデがいたシーズン)にスクテッドを獲得。その後ユベントスで2年連続優勝をするものの、カルチョスキャンダルでその優勝は剥奪されてしまい、レアル・マドリードへ。なんだかんだ言われようともチームを優勝に導くのだが、またも一年でお役御免。その後、イングランド人監督での低迷が長い間つづいているイングランドの代表監督に就任。
 今の攻撃重視のサッカーにおいて、イタリア人らしく守備重視のスタイルを取っている。それはミランの時代(攻撃力が高いグーリットよりもバレージを重視したり)からそうだったし、それはレアルの時代でもそうだった。しかしレアルのサポーターもフロントも基本的には攻撃重視のスタイルを求めてしまう傾向が強く、カペッロはその壁に苦しむことになる。レアルでは2度の優勝を飾るもの、長続きしないのはそのためで特に2回目の時はライカールトのバルセロナに引導を渡したのに解任されてしまった。ある意味不運が重なっているような監督のひとりになってしまっている。選手批判も激しく、逆に成果主義から批判されるような場面もあるが、イブラヒモビッチやカッサーノのような問題児もちゃんと使って、成長させていあたりはやはり監督の能力は高いと思うのだが。
 カールマンス(BER)……ヤン・クレーマンスがモデル。1980年代のベルギーを代表する選手で、しかもミランの移籍を断ったことから国民的人気が高い選手。ゲーム上ではFW登録になっているが、実際のところは中盤の選手。メキシコワールドカップで3点をあげてベルギーのベスト4入りに大きく貢献するほどの名選手。
 ガンジャ(BRA)……ガリンシャがモデル。小さな時に小児麻痺にかかり、無名の若い医師の手術を受けた故に体に障害が残ってしまった。とくに足の長さが右と左では2センチも長くなるなど、普通に考えれば生活すことさえも困難なじょうたいになってしまった。
 しかし彼には抜群のサッカーセンスが残っていた。フェイントは単純なのだがDFは誰もとりにいけない。しかもその相手は歴代のDFばかりで、彼らの中にはペレよりもすごい選手という評価がある。「百科事典」ニウトン・サントスでさえかわしてしまうほどで、そのサントスの強力なプッシュのおかげで、ポダフォゴに入団。代表にも選ばれ58年・62年・66年のワールドカップに出場。62年のワールドカップでは、4得点をあげ得点王(ただし多数存在)に輝き、ケガをしたペレの穴を完全に埋める活躍。
 しかし栄光とその転落を同時に味わった選手でもある。浮気が原因で妻と離婚をして6人の娘の養育費を払わなくてはいけない。クラブは無理なツアーを組んで体を壊してしまう。あれだけの栄光に包まれながら、最終的にはアルコールに溺れるようになり、貧民街で一浮浪者として最後を迎えてしまう。
 北山剛(JPN)*****(2002では現役・04ではOB選手として登場)北澤剛がモデル。豊富なスタミナとトラップ技術を生かし、どちらかと言えば影働きを中心に活躍をしていた。元々はヴェルディ川崎の下部組織にいたのだが、クラブとの兼業が認められなかったので暁星学園に。そこでも活躍が認められ、当時の本田技研の監督(後の鹿島初代監督の宮本征勝)の勧誘で本田技研に入団。最初は試合にも出してもらえなかったが、徐々に活躍の場が広がると才能を一気に爆発させる。この時に日本代表に入ることになり、日本代表には欠かせない選手のひとりとなっていく。
 Jリーグ開幕に合わせて、ヴェルディへ。このころから髪を伸ばし始めて、今でいうロンゲのイメージを確立させていく。以後代表でも、クラブ中心選手として活躍をする。ドーハの悲劇も体験。98年にはカズとともに直前での代表落ちという屈辱も味わう。チームの東京移籍も経験。2002年に引退。その引退試合には数多くのサッカー関係者やファンが集まった。引退後は指導者の道にはいかず、テレビ出演をメインに活動している。
 グラーフ(NED)……ヨハン・クライフがモデル。70年代のサッカーシーンを引っ張り、さらに今の戦術の基礎となったトータルフットボールの具現者の一人。息子もプロのサッカー選手でスペインで活躍をしていた。10歳時にアヤックスの下部組織に入団。父の死と共に学校を退学してまでサッカーに専念したためか、16歳でデビュー。この時にリーグがプロ化してクライフもプロとしての活動を開始する。9シーズン在籍したアヤックスではCLを3回制覇するなど、中心で在り続けた。
 その後はバルセロナに移籍。ここでも多数のタイトルを獲得するのだが、79年にクラブと衝突。一時期は引退をするが、アメリカのロサンゼルス・アデックスで復帰。その後古巣のアヤックスに在籍をしてさらにフェイエノールトに移籍をして余力を残した状態で引退。(オランダ最優秀選手に選ばれた)
 代表において、全世界に衝撃を与えたトータルフットボールの象徴として、オランダ代表の躍進に大きく貢献をした。ワールドカップでは決勝にまで進出し、先制のPKを獲得する動きを見せたのだが、フォクツに完全に抑えられ逆転負け。しかし次のワールドカップを前にして代表引退。独裁政権に対するボイコットだと言われていたが、最近になってクライフ自身が子供の誘拐未遂が起きたからという説明をしている。
 パロムドール3度獲得としての栄光を持つ選手ではあるが、監督としても大成功を収めた人物の一人である。アヤックスでは後にオランダ代表の主力(ファン・バステン、ライカールト、ベルカンプなど)となる選手を育てた後、崩壊に近い状態だったバルセロナの監督に就任をして、大胆なリストラと選手の獲得(元横浜のフリオ・サリナスもこの一人)引き上げを観光した結果、4シーズン連続リーグチャンピョン、クラブ史上初のCL獲得に成功する。結果的に「史上最高」と言われるほどのチームを作りあげた。現在は監督としての第1線から退いているが、カタルーニャ選抜の監督をしている。
 グーリット(NED)……ルート・グーリット(フリット)がモデル。オランダが生んだフリーマンでポジションはどこでもこなせたのだが、すべての彼の能力を活かすのであればリベロが一番いいという人が多い。ただし型にはめがちな監督のもとではその動きが制限されてしまうという脆さも持っていた。ミランのオランダトリオ時代でも、その悲劇は見事にはまってしまう。当時ミランにはバレージという絶対的なリベロがいた上に、システマチックなカペッロが監督なために、右サイドに押し込められてしまい本来の力が発揮できなくなってしまった。その後サンプドリアではエリクソンが彼に「自由」を与えたことにより復活するが、ミランに戻ったときにはカペッロは健在で結果的にそれが不振の状態を長く続けされることになる。
 キャリアの晩年はチェルシーに移籍。そこで選手権監督としてFAカップを取得することになる。翌年には監督選任になるが途中で解任。(補強のための資金が膨大になりすぎてしまったために、これがアブラモビッチを招くことにもなった)その後監督に就任したニューカッスルでは明言(迷言)「セクシーフットボール」を言い出すのだが、下位に低迷のまま一年で辞任。さらに小野がいた時代のフェイエノールトの監督も務めるがこちらも4位という成績で一年で辞任と監督としての実績は、現役事態とはかけ離れたものになっている。
 ケッセ(CRO)……ヨシップ・クゼがモデル。現役時代はディナモ・ザグレブでプレー。引退後は色々なチームを渡り歩いて、さらに監督の交代によりコーチをしていたガンバ大阪の監督に。このときの選手の中にあのエムボマがいたことからエムボマ中心の戦術を組み立てセンセーショナルを巻き起こす。帰国した後にルワンダ代表監督に就任して、今度はジェフの監督として日本に戻ってくるも、主力が抜けたジェフを立て直すのは容易ではなく、こころざし半ばでクビになってしまう。(この一件でジェフ=フロント力なしのチームとして認識されるようになった)その後アルバニアの代表監督に就任しユーロを目指すことになり一時期は首位に立つものの、自身が脳梗塞で倒れたこともあり敗退。2012年は中国のチームの監督になっている。
 ケルガン(ENG)……ケビン・キーガンがモデル。サッカー選手としては不利な部類に入る背の低さを持ち前のスタミナで走り回ることからカバーしたことにより「マイティマウス」と呼ばれていた。リバプール時代には3回のリーグ制覇、2回のUEFAカップ制覇、CL制覇に貢献。まさしく名選手の一人だったのだが、彼の本格的な活動はハンブルガーSVに移籍してから。イングランドの選手は海外に移籍するとうまく戦術がフィットしなくなるなどの問題を抱えていたが、彼はそんな声をよそに順応。リーグ優勝、UEFAカップ準優勝に貢献。これが認められパロムドールを2シーズン連続で受賞など、まさに名選手ここにありという選手だった。しかし代表レベルでは活躍がなく、ワールドカップ出場が1試合だけ。当時の戦術の犠牲になってしまった。
 引退後は監督の道へ。内容からすれば昇格請負人という形でニューカッスル・マンチェスターシティを昇格させる。代表監督にもなるが、世代交代の時期の就任だったためにユーロの本戦で予選落ち。
サ行
 ザックラーニ(ITA)……アルベルト・サッケローニがモデル。監督のキャリアの中でインテル・ミラン・ユベントスというイタリアの三つのビッククラブの監督を務めた二人のうちの一人(もう一人はトラパットーニ)だが、生粋のインテリスタ(インテルのファン)で、長友の移籍にも大きな影響を与えたとも言われている。
 選手としてのキャリアは短く20で引退。そのあと家業を手伝いながら監督の勉強をして30歳で監督デビュー。ウディネーゼではビアホフとアモローゾという強力な二人を要して3位に滑りこみ、認められミランの監督に就任。その次のシーズンはビアホフ、ボバンなどを中心にしてチームを組み直し、低迷するチームを優勝に導く。しかし3−4−3のザッケローニと4バックのベルルスコーニの意見が合わず成績不振も合わさって解任。この後のラツィオ・インテル・トリノ・ユベントスと監督を務めるがいずれも結果は出ず。(インテル時代のCL出場権確保ぐらい。もっとも途中で就任というケースが多かったのだが……)
 年齢的にも言って監督としてのキャリアは潰えたと言われていた頃にまさかの日本代表監督就任。周囲は怪訝な目で見ていたのだが、親善試合でメッシを要するアルゼンチン代表を撃破。さらにアジアカップを優勝に導いたところで、一気に評価が変わってしまった。イタリアサッカー連盟特別賞を受賞。
 サンディーニ(BRA)……テレ・サンターナがモデル。フルミネンセと契約をして9年間中心選手として活躍。その後グアラニ・バスコダガマの選手として、引退。FWとしても活躍をしていたのだが、現役当時は交代が認められていなかったため、DFが負傷するとDFの代わりもやっていた。代表にも選ばれていたが、相手がガリンシャだったのでポジションが奪えなかった。しかし州選手権優勝などに貢献。
 引退後は監督として別チームで4つの州選手権タイトルを獲得。その後80年に代表監督を引き受けると黄金の4人を中心とする歴代ブラジル代表の中でも人気の高いチームを作り上げる。しかしチーム自体が急造だったことと、バランスが結果的に取れなかったこと、さらにパウロロッシの存在により82年は敗退。その後アルアハリの監督を務めた後にもう一回代表監督を引き受ける。ファルカンを外して若手を入れたものの、フランス戦でジーコがPK失敗をしてPKに持ち込まれて敗退。その後はクラブシーンに戻り各大会に優勝。とくにサンパウロの全盛時代には日本代表監督のオファーを断るほどだったのだが、96年に脳梗塞を患い指導者を引退。そこから壮絶な闘病生活を経て2006年に死去。ブラジル代表監督として黄金の4人組を始めたという攻撃サッカーはブラジル代表のあこがれにもなったのだが、どうにそれがブラジルの足かせにもなる。94年02年のワールドカップ優勝はいずれも守備的戦術をとったことから批判は強かったのだが。勝つのであれば攻撃ではなく基本的には守備をメインに考えるべきだった。それ故に、ブラジルの代表のサッカーを狂わせた監督の筆頭株とも言える。ただその監督術は見事とかた言い様がないほど見事でブラジル最強監督のひとりとして今も尊敬を集めている。
 ジード(BRA)……ジーコがモデル。日本にこの人が来てくれたからこそ日本サッカー界が大きく飛躍したと言っても過言ではないのだが……。ジーコというのは「やせっぽっち」という意味。で本名はやたらめったら長い。(ブラジル人の特徴)ブラジルを代表する選手で、現役時代は3拍子そろった選手だが、周りを生かすプレーも多くそのあたりはマラドーナやロナウジーニョとは違う。82年では黄金の4人組の一人として優勝が期待されたものの、パウロ・ロッシの覚醒の前に沈んでしまう。86年のワールドカップではフランスとの激闘に途中出場をするもPK失敗で涙を呑むことに。89年に一回引退をし、スポーツ大臣に就任するものの、住友金属サッカー部(後の鹿島アントラーズ)のオファーを受けて現役復帰。あらゆる面での強大な権力を持った彼はチームにプロフェッショナルを植え付け、J1最初のファーストステージを制覇してしまう。94年にサッカーの舞台からは降りるものの、ビーチサッカーで活躍をしていた。
 98年ワールドカップではザガロの片腕としてチームのまとめ役に。その後2002年に日本代表監督に就任。規律重視のトルシエとは逆に自由を与えすぎてしまった感のあるジーコ采配ではあったが、アジアカップ、コンフェデレーションズカップの健闘を考えると監督としてはちゃんと結果を残している。その後はトルコの名門フェネルバフチェの監督に就任。1年目はリーグ戦優勝、2年目にチームをCLベスト8に導く采配を見せつけるが、それ以降不振状態がつづいている。
 シモン(FRA)*****(03・04は実名、05は未登場、DSはディザン)……ジダンがモデル。サッカーの技能においては総て一流以上のものを持っていて「マエストロ」「将軍」と呼ばれている。アルジェリア系移民の両親から生まれ、少年時代はマルセイユ郊外の貧民街で育つ。カンヌからデビューをし、チームの二部降格に伴いボルドーへ移籍。その活躍が認められて代表入りをするが、フランスの問題が同時に降りかかる。結果的にフランスは98のワールドカップの優勝の原動力となり(決勝戦で2ゴールを上げたが、予選のサウジ戦で選手を踏んづけてしまい決勝トーナメント1回戦まで出場停止にはなったが)、その声を吹き飛ばす。その後もフランス代表の中心選手としてユーロ制覇にも貢献。しかし日韓ワールドカップの時は、連中試合の韓国戦で相手の悪質なファールを受けてしまいケガ。結局強行質城下デンマーク戦だけの出場にとどまり予選敗退。その後ユーロ04のあとに一回代表を引退。しかし予選敗退寸前で復帰。フランスをワールドカップへと導く。大会を最後に引退も表明。フランスは優勝候補筆頭のブラジルを破るなど快進撃を続けるが、決勝のイタリア戦でマテラッテイの暴言から、マテラッティを頭突きして倒してしまう。これでレッドカードを提示されて退場。何とも寂しい幕切れになった。それでも大会MVPを獲得している。
 クラブシーンでも世界一を地でいくような活躍。ボルドーのあとはユベントス。さらには当時世界最高の移籍金でレアルマドリードへ移籍。チームを問わない活躍に世界最高レベルのMFの一人といわれている。それゆえに他の一流選手からも、世界最高の選手と評された。2002年のCL決勝(レバークーゼン戦)のボレーシュートも語りぐさ。これだけの選手でありながらパロムドールは98年の一回だけというのが不思議。(ただし偉大なる100人の選手に選ばれ、FIFA年間最優秀選手3回も獲得している)
 ピッチの中と外で性格が変わる選手の一人であり、ピッチないでは頭突き事件を起こしたりしている変わりに、ピッチ外ではシャイなエピソードが多数ある。日本のCM「ジダンが地団駄」に唖然とさせられた人もいるかも。
 ジャック(ENG)……モデルはジャッキー・チャールトン。ボビーチャールトンの兄で、ボビーがマンU一筋だったのに対して、彼もリーズ一筋。ただしポジションはセンターバック。現役時代は弟違い堅実なセンターバックとして活躍をし、弟ともにワールドカップと優勝を経験。しかし弟と違う天は引退した後。弟は監督業をしていないが、兄は監督業としても一流の成績を残した。ミドルスブラを強豪チームに押し上げ、代表監督としても隣国アイルランドを、ヨーロッパ選手権やワールドカップに導いた。
 シュマイゼン(DEN)……ピーター・シュマイケルがモデル。デンマークを代表するGKで、長年マンチェスターユナイテッドのゴールマウスを守り続けた。息子はレスターで同じポジションの選手をしている。元々はハンドボールの選手だったのだが、誘われる形でサッカーにチェンジ。この時にハンドボールの経験が活かされる形になる。12歳からデンマークのクラブ所属をしていて、国内のチームを渡り好き28の時にマンチェスターユナイテッドに移籍。所属していた8年の間に5回のリーグ優勝・FAカップ3回・ヨーロッパのビックタイトル一回ずつ獲得に大きく貢献。その影響力の大きさもあり、世界最高のGKと言われていた。現実問題2000年にはいり彼がチームを去ると、マンUはGKの後継者問題に頭を抱えることになり、ファン・デル・サールが来る5年の間常に悩まされ続けることになる
 ジョールズ(WAL)……ジョン・チャールスがモデル。「優しい巨人」と呼ばれるほどの選手で、イギリス出身の選手で成功を収めた数少ない選手の一人。リーズ時代にセンターバックからセンターフォワードにコンバートされ才能が開花。この7年間(150G)の活躍が元でユベントスへ移籍。そのユベントスでも最初の年に得点王に輝き、3回のスクテッドと2回のコパ・イタリア制覇に貢献。ユベントスに在籍していたときにあげたゴールは97。リースに戻ったあとはローマへ移籍するも、そこではあまり活躍ができなかった。地元のクラブに戻りそこで引退。97年にユベントスでいちばんの外国籍選手は誰ですかとアンケートを取った時にプラティニなどを抑えて彼が選ばれるほど、その活躍というのは大きかった。
 ズドラブコヴィッチ(YUG)*****(3・04・DSではスコイトビッチ)……トラガン・ストイコビッチがモデル。ヘディングを除くプレーが全てにおいてハイレベルで出来たこと、さらには味方にとって優しいパスなどを出すことから「ピクシー」という二つ名がある。10番に対して強い思いがあり、リネカー以外には決して渡さなかった。ルーニーに破られるまでユーロの最年少ゴールの記録保持者。それまでは地元のクラブにいたが兵役後にレッドスターに移籍。チームを国内リーグ優勝に導きMVPにも輝く。親善試合で当時モナコの監督だったベンゲルが獲得をしたかったものの、規定のせいで獲得は出来ず。その後ユーゴ騒動に巻き込まれる形になった90年のワールドカップではオシムの元ベスト8進出に貢献。その活躍の後マルセイユへ移籍。しかしそこで待っていたのは大けがとの戦いであった。ベッケンバウアーをしてパロムドールを取るべき選手として賞賛されていた選手は、フランスの名門マルセイユ(ベローナへレンタル移籍をしていた時期もあったが)で苦難に立ち会うことに。その上代表ではユーゴ内戦、クラブでは八百長問題による2部降格という状況もあって、当時リネカーのいた名古屋へ移籍することになる。
 移籍当初は半年間のレンタルだったこともあり、フィットすることも出来なかったのだが、95年にベンゲルが名古屋の監督に就任してから、彼中心のチームに作り替えてる。ここから名古屋の大躍進の中心となる。95年には年間MVP。96年と00年には天皇杯の優勝と輝きを取り戻した。その後は名古屋一筋でプレー。いったん引退を表明するも、ファンの要望に応え半年間現役を延長。01年の東京V戦で引退。
 代表もJリーグへ移籍したことから上向き出す。ユーゴ紛争による出場停止を開けた後のブラジル戦ではペレが絶賛。98年ワールドカップでもゴールを上げる。さらには00年ユーロでは冷遇を受けながらも予選突破の原動力になった。
 現役引退後はセルビア・モンテネグロのサッカー協会の会長とレッドスターの会長職を経験しあとした後に名古屋の監督に就任。低迷気味だった名古屋のスタイルを大きく変え2008シーズンを3位に躍進するという手腕を見せつける。3シーズン目には優勝を飾る。ベンゲルからは自身の後継者として指名をされた。
 ゼルベルガー(GRL)……ゼップ・ヘルベルガーがモデル。戦争によって荒廃したドイツをワールドカップ優勝にまで導いた名将で彼の教え子にはクラマーやバイスバスラーなどの有名監督もいる。ナチスドイス時代の選手でもあり、引退後もチームのコーチとして携わる。1936年からナチスドツの代表監督に就任して、さらに戦後には新生ドイツの代表監督に就任。国際舞台復帰から6年であのマジックマジャールを破ってのワールドカップ優勝にまでチームを持っていく。14年にわたって(ナチスドイツ時代を含めると20年)ドイツ代表を牽引した後は、ケルン大学の教授として教鞭を振るった。
 ソクラウス(BRA)……ソクラテスがモデル。82年のワールドカップにおいての黄金の4人組のモデル。大学の医学部の在籍中にブラジル代表に選ばれる。そのために付けられたあだ名は「ドトール」(医者)。キャリアはそのほとんどがブラジル国内ではあったが、一時期フィオレンティーナでプレーしたこともある。引退後は医師(というよりかはマルチに)として活躍していたが、不摂生がたたり2011年に死去。
タ行
 ダースラー(GRE)***……ダイスラーがモデル。ボルシアGMからデビュー。しかしチームがすぐに二部降格となってしまったのでヘルタ・ベルリンへ移籍。そこで才能が認められバイエルンへ。しかしそこで待っていたのはケガとの戦いだった。膝・靱帯を痛めて続け、さらには周囲の期待や私生活の問題(本人は全く問題ないのだが、両親の離婚とか婚約者の妊娠から出た健康問題とか)から鬱病を発症し、治療のためにサッカーから一時離れることに。鬱病を克服するも、また膝を痛めたことにより戦線離脱。とどめに鬱病が再発してしまい、これが彼からサッカーへの情熱を奪い去ってしまった。2006−2007シーズン後に27歳という若さで引退。サッカー界、ドイツ国内に大きな衝撃を与えた。
 ドイツから生まれたファンタジスタで、中盤の仕事であれば総てをこなすことが出来た選手。その能力の高さは「怪我と鬱さえなければジダンに匹敵する」と言われるほど。しかし彼には運がなかった。日韓ワールドカップの時は靱帯断裂をしてしまいメンバーに選ばれず。鬱病を克服して望んだ、ドイツワールドカップでも膝のケガで断念と、とにかく精神面と怪我(膝の手術はを5回受けた)で悩まされ続けながらの短い現役生活だった。鬱病との戦いはいまだに続いているようで、そこからなのか一時期行方不明だったことも。彼の戦いはいまだに続いている。
 チャールズ(ENG)……モデルは”サー”ボビー・チャールトン。イングランドサッカーを語る上で絶対に忘れてはいけない人。通称「キャノンシュート」と呼ばれる強烈さとテクニックを併せ持つ名選手。17歳でマンチェスターUに入団し、19歳の時にレギュラーに。その後チームは優勝をしヨーロッパの舞台に立つものの、その準決勝の帰り道にミュンヘンの悲劇に会いチームメイトを多く失ってしまう。一時期はボールを蹴れない時期もあったが、チームの再建の中心選手として活躍をする。チームは再びリーグの中心になり、さらには欧州チャンピョンズリーグでも優勝。その前の年にはパロンドールに選ばれるなど、マンチェスターユナイテッドの象徴として君臨。ワールドカップにおいても地元開催の66年大会(4回出場登録あり)において優勝に貢献。そのことが評価されて94年に”サー”の称号を得る。キャプテンシーにも優れ、私生活でも模範的。
 デルグ(ARG)*****……カルロス・テベスがモデル。2部のクラブにいたところをボカのスカウトに認められボカに移籍。17歳でデビューをするとレギュラーの座を掴み、さらにはトヨタカップではミランを破る活躍まで見せる。このため彼に対する推定の移籍金が高騰することになるのだが、彼の代理人のシステムがかなり特殊だったことから移籍先はヨーロッパではなくコリンチャンス。ここでも大活躍をしてアルゼンチンの選手でありながら、ブラジルの人から認められる存在になった。
 またも注目株として目を集めることになるのだが、この代理人システムが下した次の移籍先はウェストハム。当初は不振を極めていたが、終盤になり驚異的な得点力を発揮して残留に貢献する。その後マンUに移籍。クリスチアーノ・ロナウドなどのメンバーにも恵まれ大活躍(このあたりから彼自身のスタイルがセンターフォワード型になっていく)ろくにルーニーとは当初反りが合わないのではというほどプレースタイルが似ていたのだが、そんなことはお構いなしに得点を上げ続け、リーグ屈指のコンビと呼ばれるようになる。個人としてもトヨタカップで南米・ヨーロッパ側の両方のチームでタイトルを取った史上初の選手として名が残ることになった。
 しかし栄光の時代はそれほど続かず。契約期間が切れた後もチームからは残留要請をされていたものの、ファーガソンとの確執(またかよ)や、ベルバドフの入団による出場機会の現象から同じ街のマンCに移籍をする。このチームでも中心として活躍をして、しかも無くてはならない存在になっていたのだが、今度は彼自身の素行が首をもたげる形に。監督マンチーニとの中が良好ではない上に、移籍騒動をことあるたびに引き起こす状態に。その度に謝罪や制裁などが下るのだが、今もその火種というのが残っている状態で、いつ爆発する変わらない状態ではある。
 ただ本人は今のサッカー界の現状を辟易としてみている節があり、早い段階の引退を望んいると言われている。そうなると年齢的に言えばブラジルのワールドカップぐらいで見納め……?
 ドサイー(FRA)***……デサイーがモデル。ガーナ人の両親から生まれ、4歳の時にナントに移住。クラブデビューも地元のナントから。その後マルセイユに移るが、そこで待っていたのは八百長事件だった。八百長事件の罰でマルセイユが降格したためミランへ移籍。その後チェルシーへ移籍をして中心選手として活躍。アブラモビッチがチームを買収する時期にカタールへ移籍。その後チームを一回移籍した後無所属となり、そのまま引退。
 体格を生かした守備とたしかな技術を持ったセンターバックで98年のワールドカップでは地元フランスの優勝に大きく貢献。ユーロ2000でも優勝の原動力になる。代表として試合に出た回数は当時ではフランス最多。フランス代表においては欠かせない選手になったのだが、同時にそれはフランス代表における人種の多様化を招くこととなり論争の種にもなった。
 トット(ITA)*……モデルはトッティ。ビッククラブへの移籍が何回もささやかれながらローマ一筋を貫く。父親が生粋のロマニスタ(ローマサポ)ということから、本人もローマに強いあこがれを持ち、入団。16歳でデビューを果たすとそのまま順調にステップアップ。レギュラーの座を射止め「ローマの王子様」という異名も付いた。攻撃的MFになってから才能は開花。本人の性格上の問題もあって少しの時期伸び悩むが中田英寿が入団した時期から再び伸び出す。00−01シーズンでは13Gをあげてセクデット獲得に貢献。さらにドイツワールドカップでは調子が悪い状態でも優勝に貢献と、もはやイタリアにはなくてはならない選手になっている。
 相当のアニメ・ゲームファンで「キャプテン翼」のまねごとをして骨折したとか、ゲームのまねごと(ウイニングイレブン好き)を実際の試合でやってしまったとかエピソードには事欠かない。おまけに天然ボケなのでその手の話にもことが欠くことはなく、本人公認でエピソードを集めた本が出版されている。
ナ行
 ナウジーニョ(BRA)……ロナウジーニョがモデル。一時代を築いたスーパースターだが、サカつく04まではいい評価を受けていないので、能力を見た時に落胆をするかもしれない。もともとロナウドという名前だったのだが、同じ代表チームに怪物ロナウド(フェノーメノ)がいたために
ブラジルでははガウショと呼ばれることが多い。兄はJリーグでプレーしたことがあるアシスで、現在彼の代理人も務めている。この兄がグレミオとプロ契約をしたことで小さい頃に貧民の状況から脱出している。
 そのグレミオに入団。海外移籍が持ち上がったのだが、いずれのケースも破綻をする。世紀を越してパリ・サンジェルマンに入団。当初は個性的な攻撃陣の前に埋もれがちな存在だったが冬を越して一気にレギュラーの座を掴むと輝きはじめる。翌年にもその輝きを失わずなおかつサポーターの心をつかむのだがチームは11位に終わり、ヨーロッパの舞台への出場者がしたことからバルセロナへ移籍。その後はバルセロナ一員として数多くのタイトルに絡むことになる。同時に負傷にも悩まされ、さらにバルセロナのサイクルという理論に巻き込まれて、半ば追い出されるようにミランへ移籍。しかしバルセロナ時代に見せたトップフォームを取り戻すのに苦労(それでも存在感を示していた)して、結果的にそれが取り戻せないまま母国へ帰還。フラメンゴでは徐々に実力を取り戻し、カップ戦3冠奪取に貢献。しかし4年契約を1年で破棄し、アトレイチコ・ミネイロに移籍している。
 ニースケンス(NED)……ヨハン・キースケンスがモデル。同じチームにクライフがいた事から「もう一人のヨハン」と呼ばれている。どこのポジションでもこなせることからトータルフットボールにおいてクライフと同じぐらいの重要な役割を果たしている。野球からヒントを得たスライディングタックル(素質はかなりあった)や、オランダ代表の中ではそれほど高くはない(それでも178センチ)とはいえ、強烈なシュートを放ったりしている。高い精神力と身体能力はトータルフットボールを体現するには十分すぎる要素で、オランダ代表の最盛期「トータルフットボール」の中心として活躍した。
 その身体能力が故にあらゆるスポーツで能力を示したが、サッカーの道を選び20の時に全盛期のアヤックスに移籍。ここでの在籍は4年であったが、その4年の間にリーグ優勝2回・カップ戦優勝2回、さらにチャンピョンズリーグ優勝3回に貢献する。このときは彼は右サイドバックでプレー。この後に攻撃力をいかすためにポジションを中盤に移す。それが大当たりをして西ドイツワールドカップの時には、5得点を上げる大活躍を見せる。この後にクライフが移籍したバルセロナに移籍。ここでも4年間の在籍の間でもクライフとの抜群のコンビネーションを見せる。このクライフが行くのを拒否したアルゼンチンワールドカップでも決勝進出に貢献。その後はアメリカでベンケンバウアーと一緒にプレーしたのち、スイスでプレーして引退。
 強烈なカリスマを持った選手の影という役割が似合う人物で、クライフ・ベッケンバウアーの二人の偉大なるサッカー選手とともにプレーしていた。指導者になっても監督としてはそれほどでもないが、コーチとすればライカールト時代のバルセロナのコーチとして一つの時代を築きあげるなど、コーチとしての技量はある。現在はガラタサライのアシスタントコーチ。
ハ行
 バステン(NED)……マルコ・ファン・バステンがモデル。オランダを代表するエースストライカー。エースストライカーの仕事だけではなく、時には2列目までに下がってちゃんと仕事こなす、前線で奪ったボールをそのままゴールにしてしまうなどマルチなサッカーセンス(トータルフットボールの典型)を見せていた。アヤックスでの活躍後にミランへ移籍。ここでオランダトリオやバレージなどとミランの黄金時代を作り上げる。しかし怪我には泣かされっぱなし(接触されてもなかなか倒れないボディーバランスが原因とされているが)で、そのため選手生命が早く終わる原因にも。3度のパロムドールを含む活躍はクラブの黄金時代の象徴だが、代表に関しては苦手な相手がいたせいで、活躍に差(ワールドカップでは無得点)が。それでも88年のヨーロッパ選手権決勝で見せたボレーは語り草
 引退後はサッカーから離れていたが、アヤックスのコーチからいきなりオランダ代表監督に就任。ビック3(アヤックス・PSV・フェイエノールト)以外のチームからの選手や実績の少ない若手選手の起用で思い切った起用が当たって低迷気味だったオランダサッカーに新風を吹き込ませることに成功する。08年ユーロ後は古巣アヤックスの監督に就任。「9本のスーパーゴールよりも10本の平凡のゴールの方がいい」という言葉は有名。
 林谷勝ニ(JPN)……柱谷哲ニがモデル。柱谷兄弟の弟でセンターバックとボランチをこなす。キャプテンとしてピッチ内で指示を飛ばす姿から「闘将」と呼ばれた。Jリーグ開幕当初のV川崎黄金期を支えた選手だが、元々は日産の選手のため、横浜Fマリノスとの試合の場合は大ブーイングを受けることもしばしば。
 しかしV川崎(東京V)のチーム方針に何度も泣かされることになる。引退のきっかけになったのは「0円提示」(戦力外通知)だし、2008年で古巣の監督になったときにはフロントの不手際と資金不足に何度も泣かされている。(結果的に東京Vは崩壊の引き金を自ら引いてしまう)最も札幌監督時代から監督としての能力には疑問があった(コーチとしては実績がある)のだが……現在はJリーグのOB会の会長。
 林谷章一(JPN)……柱谷幸一がモデル。柱谷兄弟の兄。主にFWとしてプレーをして日産の黄金時代の中心選手として活躍。しかしJリーグ開幕を目前にして監督との対立で浦和へ。その後もチーム事情から柏へ移籍。ここで柏をJリーグに上げる原動力になる。
 引退後は指導者の道へ。前任者の辞任に伴い山形の監督へ。ここでチームを3井に導いたのだが、皮肉にもこれが山形の低迷につながってしまう。翌年は研究を差れてしまい下位へ低迷。さらに山形の監督中に不倫騒動を写真週刊誌にスクープされてしまい辞任に追い込まれる。その後は京都の監督に途中から就任をしてチームをJ1に導くもJ1では低迷をし続けてしまい解任。その後当時JFLだった栃木FCを昇格に導くも今度は方針をめぐってのクラブ経営陣との対立で辞任。どちらかと言えば「昇格請負人」のような感じがするのだが。
 バルダーニ(CLO)……バルデラマがモデル。アメリカワールドカップでコロンビアが優勝候補だと言われたの時の象徴的人物で。個性的なメンバーを操る司令塔として君臨をしていた。インサイドキック一つで相手の守備を切り裂くパスを出せるのが特徴的でダイレクトパスなども得意としていた。90年ワールドカップでは敗戦寸前だったチームを、西ドイツ相手に同点ゴールを決めることで決勝トーナメントに進めることに成功させる。
 クラブシーンは逆にそのスタイルの成果合わずにモンペリエとバリャドリードの2チームだけで帰還。選手生活の殆どをコロンビアのクラブとアメリカのチームで過ごす。MLS(メジャーリーグサッカー。アメリカのサッカーリーグ)の方は水にあっていたようで、MLS年間最優秀選手を授賞している。
 バンゲル(FRA)……アーセン・ベンゲルがモデル。名古屋での実績から未だに日本代表監督就任希望の声が多い世界的名将の一人。5カ国語を操り、さらに日本語まである程度理解できるという能力を持つ。ストラスブールからプロデビュー。所属しているときにリーグチャンピョンになるが、試合には多く出れなかった。その後81年からコーチに転身。ナンシーで監督になるが3シーズン目でチームを降格させてしまう。その後モナコの監督になりリーグ優勝。有名選手を多く招き、7年間もモナコの監督を務めることに。95年に低迷を続ける名古屋の監督に就任。最初こそ低迷をしていたが、チーム環境のおかげもあり飛躍を重ねることになり、天皇杯を制した。その翌年にはアーセナルの監督に。ここで全権を任されることになり、低迷するチームをプレミアの強豪に押し上げることになる。マンチェスター・ユナイテッドという目の上のたんこぶがありながら、3度のリーグ優勝(そのうち一回はシーズン無敗)、FAカップの4度優勝は彼が超一流の名将だということを表している。スペクタクルなサッカーを好み、大胆なコンバートもする事が多く、そこから選手の才能を開花させていくことの多い監督でもある。
 ピエール(FRA)……ジャン・ピエール・パパンがモデル。フランスを代表するストライカーだが、ワールドカップ予選敗退の時の時代の選手だった(その後はジダンの時代)せいか、いまいち印象は薄い。地元のクラブでデビュー。その後は国立サッカー学院を経てベルギーのクラブへ。ここで初めて代表に呼ばれる。その後はマルセイユへ移籍し一時代を作り上げ、自信も得点王に5回輝く。この時期にパロムドールを獲得。その後はミラン→バイエルンと移籍して再びフランス国内へ。引退後は指導者として順調にステップアップしているようだが、ランスで降格の危機を救えず途中で解任されている。オーバーヘットキックの名手で確実に強力なシュートとなってゴールをおそってくる。09年になって現役復帰を発表。
 ファーグソン(SCO)……サー・アレックス・ファーガソンがモデル。現役引退後に地元のクラブから監督としてのキャリアをスタート。2チーム目となるアバティーンでは3度のリーグ優勝に輝く。その後スコットランド代表監督のあと、86年にマンUの監督になり、現在に至るのだが、強豪クラブの監督を20年以上務めている監督は現在では名監督の一人とした必ず名前が挙がっている。基本的なスタイルは極端なほどの規律重視。育成には定評があり、それらはいずれもチームの中心選手として活躍をしている。
 しかし「ヘアードライヤー(瞬間湯沸かし器)」の異名がある通り、至る所でトラブルを起こす監督でもある。監督官の舌戦は良くある話だが、気に入らないとなると自分の選手を冷遇し出すということもし出す。その犠牲になった選手というのがベッカム、ファンニステルローイ、テベス、コールという主力を張ったことのある選手だらけ(ルーニーは逆手にとったが……)だからたちが悪い。たしかにリーグ優勝11回(2009年現在)CL優勝2回をほこるのだが、それじゃあ名監督かというとそれは?マークが付く。
 ブストス(HUN)……プスカシュがモデル。ハンガリーの黄金時代であるマジック・マーシャルの中心的選手の一人で、主将を務めたことから「走る少佐」と呼ばれていた。足元のテクニックのものすごくある選手は触っただけで2点を取られていたと言わしめるほど。アリ・ダエイに抜かれるまで代表で上げたゴールは世界一を誇り、さらにその得点力は84試合で83得点という脅威的な数字を記録した。
 ヨーロッパでは戦乱が終わった後に代表デビュー。その後の50年から4年間無敗を続けるがその中心に常に彼がいた。52年に行われたヘルシンキオリンピックでは金メダルを獲得、54年のワールドカップでは西ドイツの意図的なファール(まだこの時にはイエローカードとレッドカードが制定されていなかったためこういうことが行われいた)による怪我による決勝とーナントに出れず、しかも主審もイングランド(当時最強といわれながら2度も大差で敗れる)出身という不運も重なり西ドイツの前に敗れる。(無敗記録もここで終了)
 ただ一番の不運だったというのはプラハに民主化の風が起こっていたことと、それによるソビエトを中心とし弾圧があったこと。これによりスペインへの亡命を余儀なくされ、レアルマドリードに入団、しかしハンガリ政府の圧力により2年間も出場できないという事態に。(今だったら、逆にハンガリーサッカー連盟のほうが追放される)しかしベテランの域に入った彼はレアルでも大活躍第1期黄金時代を創り上げる。5回のリーグ優勝・3回のUFEAチャンピョンズリーグの制覇・1回の世界一。これだけの実績を残して39歳で現役を引退。尚この時にスペインの国籍を取りスペイン代表としてチリのワールドカップに出場するも無得点に終わった。
 以後は世界中で監督をする。キャリアハイはAEKアテネを率いてのCL準優勝。この時の相手はクライフが率いるアヤックスだった。サウジの代表監督、母国の代表監督、さらには南米のチームの監督も経験。母国への凱旋も熱狂をもって迎えられた。しかし晩年はアルツハイマー病に苦しみ、6年の寝たきり生活を経て2006年に死去。2009年に彼の名を冠した「もっとも美しいゴール」にたいする賞を設置。これまでにC・ロナウドとハミト・アルトゥントップ(トルコ)が受賞をしている。
 フンバルト(HUN)……フロリアン・アルベルトがモデル。マジック・マーシャルがプラハの春で崩壊した後のハンガリーサッカーを支えたストライカー。クラブシーンではずっと同じクラブ(フェレンツヴァローシュ)で過ごしてきたが、その間にリーグ優勝4回、UEFAカップの元になった大会でも一回優勝をしている。自身も得点王に3回も輝いている。
 もちろん代表に選ばれることが多く、60年のオリンピックでは銅メダル獲得に貢献。さらにその後のワールドカップでは他に5人いるという状況ではあるが得点王に輝く。67年にはパロンドールをボビー・チャールトンを押さえる形で受賞。名実ともにハンガリーを代表する選手になった。
 ベウバル(BRA)……バウベルがモデル。17歳でサンパウロ州選手権得点王に輝き、翌年にコリンチャンス。さらにその翌年には横浜フリューゲルスに移籍。リーグ戦で11点をあげる。さらに97年にも再来日をして横浜フリューゲルスに再度所属。この時は20点を上げてチームの主力として大活躍をする。その後マリノスに移籍をするがフリューゲルス時代のような成績を挙げられずその後帰国をする。代表にも1試合召集されたことがある。
 ペリーラ(BRA)……ルイス・カルロス・ペレイラがモデル。Jリーグ創世記のヴェルディとチーム創世記の札幌を支えたセンターバックで、DFとしてはもちろん、セットプレーからの得点力が強烈だった。ヴェルディの黄金時代を過ごした後に札幌へ移籍。背番号0を背負い奮闘するところから初代ミスター・コンサドーレと呼ばれた。リーグ優秀選手賞・Jリーグベルトイレブン2回という、活躍を見せいているのだが、なぜかウィキペディアには母国語での項目がない。
 ボロン(CRO)……ボバンがモデル。地元のディナモザグレブでデビュー。若くしてキャプテンになるが、レッドスターとの試合で大乱闘を起こし9ヶ月の出場停止と共にイタリアWカップを棒に振る。(暴動の背景にはユーゴ騒動。ディナモザグレブはクロアチア、レッドスターはセルビア)出場禁止あけを待ってミランへ移籍。バーリでのレンタルの後、ミランの主力として活躍するがEU枠からはじき出されている格好のボバンの出場機会は年々変わっていく状態に。それでもフランスワールドカップでは背番号10をつけ3位の原動力に。その後はミランからセルタに移籍をしてそのシーズンの終了を待たずに引退。
マ行
 松本太郎(JPN)……モデルは松木安太郎。実家は名門のウナギ屋。現役時代はサイドバックとして活躍。日本代表としても12試合に出場。現役引退後はヴェルディの監督として初代のチャンピョンに輝くも、戦術が選手の考えとあまりにも違いすぎたためにベテランの選手を中心に内紛を招いてしまう。2年目のシーズンも優勝はするものの、本人の手腕ではなくネルシーニョの手腕だという声が。監督退任後にセレッソとヴェルディの監督をするが結果が出ずにチームをすぐに離れる。現在は持ち前のキャラクターを生かし、テレ朝で解説をしている(通称「**XP」とのやりとりは有名)。ちなみにNHK時代には「マイアミの奇跡」「ジョホールバルの歓喜」の中継を担当している。
 マルドラドD(ARG)……ディエゴ・マラドーナがモデル。弟は札幌、PJMフューチャーズ、福岡で活躍したウーゴ・マラドーナ(ゲーム名マルドラドU)。80年代を代表する選手で、本国アルゼンチンではマラドーナ教が出来上がるほどのカリスマも持ち合わせる。他の選手なら両足を使ってやっとできることを、あっさりと左足だけでやってしまう、驚異的なダッシュ力を持つが故に体めがげてチャージをする選手が続出(反則適用の強化のきっかけに)ブラジル代表戦では、4人に囲まれながらもラストパスを出すなど、正しく「神に愛された」選手だった。
 ブレノスアイレスの貧民街の生まれ。12歳でアルヘンディノス・ジュニアーズの下部組織に所属。15歳でトップチームへデビューを飾る。16歳で代表でニューを飾るも、地元アルゼンチンのワールドカップでは選考漏れ。そのうさを日本で行われたワールドユースで優勝という形で晴らす。80年代に入り、ファンだったボカジュニアーズへ移籍。さらには当時とすれば破格の条件でバルセロナへと引き抜かれる。
 しかしバルセロナで待っていたのはケガ・不運の連続だった。ワールドカップではいらいらが募って退場処分。そしてバルセロナでは相手のタックルを受ける形での長期欠場……結局、バルセロナでは何もいいことがなく、ナポリへ移籍することに。
 だが、ナポリではバルセロナで失った輝きを取り戻す。入団直後からナポリのシートは売れに売れ、払った移籍金のもとを取ったばかりではなく、お釣りでブラジル代表の当時のエースストライカーであるカレカ(後に柏に在籍)をも獲得できてしまうほどナポリのチーム財政は潤った。そうなるとセリエAにナポリ黄金期が到来する。2度のスクデットにUEFAカップ制覇。スペクタルな活躍を存分に見せ「ナポリの王様」として君臨することになる。
 彼の伝説を決定づけたのは86年ワールドカップのイングランド戦。そこで見せた世紀の二つのプレー。「神の手」(手で強引に押し込んでのゴールで世紀の大誤審)と「5人抜き」(5分後、40メートル独走の5人抜きのゴール)に象徴されるようにアルゼンチンを2度目の世界一に押し上げる大活躍。80年代は彼の時代と呼ばれる所以になっている。
 しかし次のイタリアワールドカップではナポリでイタリア代表と戦った準決勝がきっかけでナポリサポーターの関係が悪化。さらにコカインで長期出場停止になってことでナポリを離れることになる。皮肉にもこの離脱のせいでナポリ(手を出したのはバルセロナ時代だといわれている)の成績は一気に斜陽化。栄光の時代を取り戻せずにいる。
 アメリカワールドカップではドーピング違反で大会から追放。完全に落ちた英雄となってしまう。母国に戻った後は紆余曲折の末に37歳で引退。
 引退後はそのカリスマを活かして各所で活躍。テレビの視界をすれば視聴率30%をとってしまう。薬物が抜けずにとてつもない肥満に悩まされたり、そのダイエットも話題になった。またアルゼンチン代表監督への野心が強く、また周辺の待望論から2008年10月に前の監督の辞任により就任。しかし、ワールドカップ予選途中の就任だったと事でチームの核がまとまらず苦戦。選手とのゴタゴタもあり予選は結局ギリギリでの通過。もとからの口の悪さが災いして出場停止二ヶ月というおまけもついている。
 サッカーの名声では飛び抜けている(世界歴代のベストイレブンを上げろといえば確実にその名が入ってくる)ものの、人間的な魅力というのは評価が二分されている。確かに成功者の一人ではあるのだが、その反面その言動には不可解な部分があるし、イタリアマフィアとのつながり(本人は否定しているが、おそらく事実)も指摘されている。薬物問題も大きく影を落としていて、ウーゴが所属していたPJMフューチャーズ(このチームを解散してまとめたのが今の鳥栖)との契約もコカインが原因で破綻している。(日韓ワールドカップの時には日本入国がダメになる可能性があったので、アルゼンチン政府代表扱いで入国)栄光をつかんだ代わりに失ったものはそれと同等がそれよりも大きい人である。ワールドカップでは2回戦で敗退。その後アルゼンチンサッカー協会内で色々揉めたのだが、契約の更新はなく現在はUAEのチームで監督をしている。
 ミシェル(FRA)……ミシェル・プラティニがモデル。日本でも別名は「将軍」だが、本国での二つ名を訳すと「王」。中盤を確実に支配したゲームメーカーで驚異的な得点力も備わっていた。トヨタカップでのボレーシートは今でも語り草になるほどのもの(ただしオフサイドだったので、その後のふて寝も合わせてになるのだが)。それほど華麗なテクニックも兼ね備えていた。
 プロサッカー選手だった父の影響でサッカーを始める。たちまち頭角を現すが、心肺能力の関係で契約寸前まできていたメツとの入団交渉は破断となる。しなしナンシーの練習生となり、そこからプロデビュー。するといきなり下位にさまよっていたチームを7位にまで引き上げ、しかもカップ戦を優勝してしまうという大躍進に大きく貢献。移籍先のサンティエンヌでもリーグ優勝に貢献。さらにユベントスに移籍をする。ここで驚異的な得点能力も開花させ、クラブに数々のタイトルをもたらす。しかしヘイゼルの悲劇(サポーター同士の乱闘で39人死亡)をスタンドから見てしまったことで、サッカー界からの引退を考えるようになる。(ちなみにこの試合では決勝ゴールを決めた)
 当然その活躍はフランス代表でも発揮。82年ワールドカップ予選ではなんてきオランダを破って本大会に出場。その本大会でも4銃士のひとりとして、西ドイツと死闘を繰り広げる。(この試合では破れてしまい、次の試合にも破れて結局4位)ハイライトは地元で行われたユーロ。ここで2試合連続のハットトリックを含めた9得点で得点王になり、優勝も飾る。86年のワールドカップにも出場したが、この時には怪我の影響もあり、イタリア・ブラジル(この戦いも死闘)を撃破するも、ここで精根尽きはてる形で西ドイツに敗れる。その後1シーズンだけプレーした後ユーロ予選の最中に引退をする。
 引退後はフランス代表監督(立場上は最高責任者)になるが全くいいところがなく、すぐに監督業から引退。その後はフランスワールドカップの組織委員長、FIFAをUEFAの執行委員を経てUEFAの会長に就任。カップ戦の改革などに腕を振るっているが、日本自的に言えば若干イメージが良くない。というのもフランスワールドカップの時に起きた入場券の問題の時と、その後の日本の戦い方についてのコメントは明らかに「そっちの方が問題でしょ的」な発言をしている。このため若干反感を持つ人が増えたとされる。
 本村和也(JPN)*****(04以降では本人の名前でも出演)……モデルは”ミスターマリノス”木村和司。FKの名手でワールドカップ予選の韓国戦で決めたFKは80年代のサッカーの有名なシーンとして今も語り継がれる。(ただし時代的には暗黒時代そのものだが)現役時代はミスターマリノスとしてJリーグの開幕の舞台を迎えるが、結局優勝にはとどかなかった。むしろサカつく的に言えば解説の人(2002では未登場)としての方がおなじみか。2010シーズン絵では古巣、横浜マリノスの監督に就任。それなりの結果を残し、2012シーズンこそ飛躍するのかと言われていたのだが、2011シーズン終了時に解任されてしまう。横浜のフロントは中村俊輔の騒動から、ゴタゴタを繰り返していてこれもその一環。その後のマリノスの2012シーズンの序盤の躓きの原因にもなっている。
ヤ・ラ・ワ行
 ヤロン(ROS)……レフ・ヤシンがモデル。二つ名は「黒くも」。旧ソ連の代名詞的な選手で唯一のパロンドールを獲得したGK。彼の功績を讃えてワールドカップで一番活躍したGKには付けられるヤシン賞の元。21年間の現役生活はディナモ・モスクワだけで過ごしたという選手だが、その道程は平坦ではなかった。入団した当初は強力なライバルが居て、ヤシンの出番はすくなったのだが、そのライバルの怪我で巡ってきたチャンスをモノにして、代表にまで一気に上り詰める。58年・62年のワールドカップでは大量失点のこともあり、評価は上がらなかったものの、そこから才能が一気に開花。64年で喫したリーグ戦の失点は27試合でわずか6。その年のFA100周年試合ではイングランドの猛攻を凌ぐということをやり、これがパロムドーム獲得につながる。国際大会的にも第1回のヨーロッパネイションズカップ優勝(後のユーロにつながる)、第2回のヨーロッパネイションズカップ準優勝にも貢献。70年のワールドカップでも控えの立場ながらメンバー入りをして、そのまま引退。90年に死去。20世紀の偉大なる選手GK最上位、20世紀最優秀GK、20世紀ワールドチーム(フランスワールドカップの時に記者投票で選ばれたオールタイムレジェンドチーム)のメンバーに選ばれるなど、今の偉大なる選手のひとりとして名前が上がっている。
 横村賢治(JPN)……モデルは横山謙三。メキシコオリンピックの時のメンバーで、所属の三菱重工業ではJSLの初優勝に貢献。その後チームの監督として3冠に貢献するが、その後の監督生活は日本代表も浦和レッズの監督も結果を残せていないが、浦和のJ2時代にはJ1昇格の時には采配を取っていた。彼の起用した当時の日本代表はいろいろと言われてはいたが、後に彼が日本の中心としてドーハの悲劇を体験するまでに、日本サッカーのレベルアップに大きく貢献することになる。
 ラー(SCO)……デニス・ローがモデル。フォワードとして超一流のものを持ちながら、さらにアクロバティックなプレーをもこなし人を引きつけたことから、ボビー・チャールトンよりも高い人気を誇るストライカーで子どもにデニスと名付ける親が続出。その中の一人に、アーセナルで大活躍をしたデニス・ベルカンプが含まれている。
 15歳で契約をすると翌年にはプロデビュー。さらに代表デビューも飾る。この活躍でマンチェスター・シティに移籍。さらにトリノに移籍するもトリノでは活躍ができるマンUに移籍。ここに在籍をした11年間は彼にとっても、チームにとってもいいだった。リーグ優勝2回・FAカップ2回・自身はパロムドール獲得とまさに世界最高のフォワードとして君臨をし続けた。しかしチームが悲劇を乗り越えて掴んだチャンピョンズリーグ優勝の時には怪我をしていて、病院のベットの上だった。その後、前にいたシティに移籍。シティで2年を過ごしたあと引退をしたのだが、現役最後のゴールはマンUを二部降格に導くゴールだった。
 ラビチェビッチ(MON)……デヤン・サビチェビッチがモデル。15歳でデビューを果たすと、21歳からの3シーズンで優勝3回、チャンピョンズリーグ優勝。トヨタカップ制覇とクラブの黄金期を代表する選手に成長。その後ミランへ移籍するが、オランダトリオの前ではスタメンに名が上がることはなかった。しかしカペッロの信頼を出てレギュラーの地位を獲得、3度のスクデット獲得に大きく貢献。さらに自身にとっては2度目のCL優勝と、世界を代表する選手になった。
 しかし代表に関しては言えば、そういうわけにも行かなかった。イタリアワールドカップの時には準々決勝進出に大きな貢献(監督はオシム)をしたが、ユーゴ内政の影響を受けて母国の代表としての活動は全盛期には全く出来なかった。ようやく出場を果たしたのはキャリアの晩年にさしかかったフランスワールドカップだった。
 選手生活引退後はセルビア・モンテネグロ代表監督になるが日韓ワールドカップ予選及びユーロ予選で負けを繰り返し、辞任。現在はモンテネグロサッカー協会の会長を務めている。
 余談ではあるが、日露戦争が起こったときにモンテネグロも日本に宣戦布告をしていた。しかし日露戦争が終わっても、モンテネグロとの間には講話も何もなく100年近いときだけが流れてしまっていた。(最もロシアが参戦希望を断ったという話が最近になって出ているのだが)そこで試合で来日するサビチェビッチ(当時代表監督)を政府代表にして、ようやく終戦に合意したという話がある。
 リッカート(NED)……フランク・ライカールトがモデル。オランダトリオの一人で守備的な場面では確実に顔を出していた。アヤックスではセンターバックをしていたがミランではセンターハーフ(ボランチ)でプレー。ファンバステン、グーリット共にミランの黄金時代を創り上げる。その後は古巣であるアヤックスに戻り、すべてのシーズンでリーグチャンピョンをとった時の手中であり続けた。特に2シーズン連続のチャンピョンズリーグ制覇というのは、彼の評価を高めるのには重要だろう。
 引退後はオランダ代表監督を経て、バルセロナの監督へ。ここでロナウジーニョを中心としたチームを作り上げリーグ制覇、チャンピョンズリーグ制覇を成し遂げる。文字通りの名将なのだが、その後がいまいち冴えない。頂点をきわめたあとのバルセロナは冴えない戦いが続き、「サイクルの終了」とともに監督を辞任。ガラタサライでの監督もいい方向にはいかなった。
 レッカー(ENG)……ゲーリー・リネカーがモデル。紳士的で現役時代一枚もカードをもらわなかったことから「ミスタークリーン」と呼ばれる。ストイコビッチが唯一10番を譲った人。86年のワールドカップの得点王。キャリアのスタートは地元のレスター・シティから。当時のレスターは典型的なエレベーターチームでなかなか活躍が出来なかったが、84−85シーズンでは得点王を獲得。その後エヴァートンでも得点王になる。その後はバルサへ移籍。国内へ戻った後に、次に選んだチームはなんと名古屋。驚異的な得点力を期待されたのだが、日本人にはなじみの薄い点で合わせるプレースタイルのせい(最も名前だけで取ってしまった当時のスタッフの駄目っぷりが象徴されるのだが)で2シーズン4得点しか取れず引退。代表としてはイングランド歴代2位の得点にワールドカップ10得点という成績が光る。
 引退後はBBCのサッカー番組の司会として活躍中。
 レナルト(BRA)……レオナルドがモデル。甘いマスクから所属していた鹿島では「レオ様」と呼ばれていた。キャリアのスタートはブラジルの名門フラメンゴ。その後はバレンシア、ブラジルに戻ってサンパウロと順調なサッカー生活を送る。しかし94年のワールドカップで肘打ち原因で決勝トーナメント1回戦でチームから離脱する(出場停止4試合)こととなり、ブラジルの優勝をピッチ上で体験することが出来なかった。その後ジーコに誘われて鹿島に入団。華麗なテクニックを武器にチームの躍進を支える。その後はPSGへ移籍。さらにはミランへ移籍。ブラジルに戻って一回引退するものの、再びミランの選手として復帰。しかし1試合出場にとどまり二回目の引退。
 代表においては98年のワールドカップに全試合出場。しかし決勝で涙を飲む結果になってしまった。日本を愛し、イタリアを愛し、ブラジルを愛し、そしてそれら全てから愛された名選手。2009シーズンはミランの監督に就任がベルルスコーニとそれが合わずに1シーズンで辞任。2010−2011シーズンの途中でライバルインテルの監督に就任。その中で絶賛をしていた長友を強引に獲得で再び日本の注目をあびることに。
 2010−11シーズン後はPSGにスカウトとして抜かれる。本来の彼の実力派スカウト面であり、いきなり無名選手であったパストーレを47億円で獲得。この補強は懐疑的に見られたが、このパストーレが出場するようになってからPSGは一気に上昇気流に乗る。PSGは海外資に飲まれてしまったが、これにより名門復活の可能性が見えてきた。
 ローマン(BRA)……”悪童”ロマーリオがモデル。ストライカーとして足りないのは背丈と言うぐらい全ての適性を備えたストライカーで、驚異的なゴールラッシュを所属クラブにもたらした。圧巻だったのはバルセロナ時代のレアル戦。ここでのハットトリックはいまでも語りぐさになるぐらい。しかも代表が不調になると、過激な発言で代表を批判して自分を呼べと挑発し、実際に結果を出してしまうほどなので国民的人気が高いのだが、同時にそれはトラブルの元となる。元柏のミューレル・元鹿島のべベット・元浦和・東京Vの”アニマル”エジムンドとは仲が悪くけんかになることも。逆に現ブラジル代表監督のドゥンガと元柏でアメリカワールドカップ得点王のストイチコフとは仲がいい。(こうしてみるとロマーリオ以外は全員日本のチームに所属している)引退までの600試合の間に出したゴールは500以上。これ以上驚異的な得点力を持ったストライカーは現れるのだろうか。
 露蓮 ワグナー(JPN)*****(2002の時は現役)……呂比須・ワグナーがモデル。ブラジル出身。8人兄弟の末っ子に生まれた彼の家は非常に貧しく、仕事をしながら練習するという少年時代を過ごす。プロ契約を結ぶも、ブラジルでは出番がなく、オスカー(ジーコより前に日本に来たブラジル代表経験者)の誘いに乗って日本にくる。日産→日立(柏)→本田技研で活躍をしたが、外国人枠の問題に泣かされる(最も相手がミューレル、カレカだったりするのでこれは仕方ないか)ことになり、日本帰化を考えるようになる。ベルマーレ平塚に移籍したときに帰化申請を開始。帰化の調査はトントン拍子に進み、日本国籍を取得。同時にロペス待望論が大きく持ち上がり日本代表に名を連ねる事になる。
 日本代表としてワールドカップ出場に貢献。特にカズが不調だったこともあり、ロペスの存在は際立っていた。ワールドカップ本戦でも日本唯一のゴールをあげる。日本に欠かせない存在になりつつある頃に今度はクラブシーンで問題が発生する。ベルマーレの経営が不安状態になり、名古屋へ移籍。またクラブを渡り歩く生活が始まる。その後FC東京→福岡と移籍をして。天皇杯の敗退をもって引退。日本でも指導者生活を目指していたが、あまりにもハードルが高いために現在はブラジルのチームのコーチをしている。カカと仲が良く、カカがとオフの時にはゴルフに行く仲だとか。
 2012年の時にG大阪の監督の話があったのだが、資格の関係上監督に離れずコーチに。しかしこのときGのフロントは前の監督の後任選びでごたごたを繰り返していたほど、状態は悪かった。この状況でチーム改善ができず、後任の監督とともにわずか5節で解任されている。

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