スラング・スポーツ事件編
 事件編の量が多くなってきたので独立させました。ここではスポーツにおいて起こったことをメインにしています。ただしサッカー戦争のように結果大きな事件につながったものや、大きな事件に変貌したようなものに関してはこちらではなく事件編の方に乗せてあります。あくまでもスポーツとその周辺で怒った出来事が中心になります。後タイトルに関しては少々ぼやかして書いていますのでご了承ください。

 
スポーツ全般(オリンピック関係など)

 (競技そのものとはあまり関係のないものがこちらになります)

 <ロンドンオリンピックチケット問題>……スポンサー向けのチケットがまったく活用できていなかったことから起きた空席問題。ロンドンオリンピックがさほど評価されない一つの例としてあげられるほどで、結果的に警備の兵士とか動員することで何とか埋めていた。

 <バンクーバーオリンピックリュージュ選手死亡事故>……バンクーバーオリンピック開幕直前の練習でリュージュの選手が鉄柱にぶつかってなくなってしまったという事故。なんだけど原因はほぼ人災。見やすくするために設計とは違う位置に柱を立てたり、コースそのものが事故が起こりやすい設計だったりして、開幕前に大論争を引き起こした。開幕時に急遽この選手に対する黙祷が捧げられたが、直後聖火点灯で装置がひとつ故障というハプニングが起こるなど色々と不安(一部の競技で的中)を感じるものになってしまった。

 <フランスワールドカップチケット問題>……ワールドカップ観戦のためのチケットが、本番直前になっても届かないという自体が発生。各所で色々駆けずり回ったのだが、いざ本番になった時に超満員だったことから、チケット詐欺が発生したことが発覚。おまけに見たい人がダフ屋に掛け合っていたことも問題に。原因となったのはカメルーンの協会の横ながしと、チケット発給会社が逃げていたいこと。このことがきっかけになって、FIFAが直接チケットを扱うことになったのだが……
 また初戦のアルゼンチン戦で状況に対して気を使ってくれたトゥルーズのパブリックビューイングでひとつの会社のツアーが一部独占ということも発覚している。

 <日韓ワールドカップチケット問題>……フランスワールドカップの後の日韓ワールドカップで発生。前回の反省を生かして、FIFAが直接チケット販売に乗り出すことになる。その為ツアーが組めなくなるなどの2次的被害が出てきたのだが、完売されていたと思われたチケットが、実は売れていなかったことが発覚をしていて、日本代表選でさえ空席が目立つというとんでもない自体が発生した。原因はアクセスが想定した異常に多かったことと、それに対してチケット販売業者(委託していた)がなんにも対策をとっていなかったこと。結局最終販売分として日本のチケットぴあが担当することになったのだが、回線パンク状態になり最終的に幾つかの試合では席が埋まることはなかった。
 さらにひどかったのは韓国の方で決勝トーナメントの方でも空席が目立つことになり大量動員までなされることに。それでも4割ほどの席が埋まらなかったとか。
 <関連>招致問題・誤審問題・疑惑のベスト4(韓国)・嫌韓
 
サッカー

 <サッカー三大悲劇>……スペルガの悲劇ミュンヘンの悲劇ヘイゼルの悲劇のこと。トリノとミュンヘンの悲劇は飛行機事故による選手の大量死。ヘイゼルの悲劇はサポーターが暴動を起こして多数の死傷者を出したという事件。

 <マラカナンの悲劇>……1950年のブラジルのワールド勝てば地元ブラジル優勝という試合で、ウルグアイに2−1と破れ優勝を逃してしまう。ブラジルサッカーの悲劇として語り継がれ、この試合を見ていたとされる少年時代のペレが父親にワールドカップに優勝すると宣言をして3度優勝するという話や、あまりの衝撃具合に二人がその場で自殺(おい)、二人がショック死をするという衝撃になった。さらにブラジルといえば黄色いユニホームを生むきっかけになったのもこの戦いから。白のユニホームを着ていたのだが、これをきっかけにして黄色のユニホームになった。
 <関連>ベロオリゾンデの大惨劇

 <ベロオリゾンデの大惨劇>……上の出来事から64年後のブラジルワールドカップ。絶好調だったブラジル代表は準決勝にまで勝ち進んでいた。しかし前のコロンビア戦でエースであるネイマールが負傷、さらにDFの要であるダビド・シルバがカード累積で出場停止という状況だった。一方のドイツは招集の段階から色々と不安視はされていたが、準決勝まで勝ち進んでいた。普通に考えればホーム故にブラジル優位かと思われたのだが、ここで史上あいアクの惨劇がブラジルを襲うことになる。前半11分でコーナーキックからの先制弾を決められると、23分から29分までのわずか6分の間に4点を一気に決められるという大惨劇、しかもクローゼがワールドカップ最多得点記録を更新するというおまけもつてしまった。後半に入っても2点を決められてしまう。最後にオスカルが一矢を報いたもののブラジル史上最悪の大惨敗を喫してしまった。悲劇を惨劇で塗り替えてしまったとも
 <関連>94年ぶりの大惨劇(最多得点差敗戦タイ)・マラカナンの悲劇

 <神の手・5人抜き>……メキシコワールドカップアルゼンチン対イングランド戦でおこったサッカー史上最悪の世紀の大誤審。ポーンと上がったボールをマラドーナが頭で押し込んで先制……かとおもったら、実は手でボールを触っていたことが発覚。判定は覆ることがなく試合は続行されたのだが、その直後今度はマラドーナの真骨頂であるドルブルが冴えて、50メートル5人抜きという伝説のゴールを生み出す。
 <関連>マーク・オライワン(サウジアラビアの選手。4人抜き60メートル)・マイケル・オーウェン(4人抜き40メートル)、ジョージ・ウェア(ほぼゴールトゥゴール)

 <ドーハの悲劇>……アメリカワールドカップ最終予選。最終戦のイラク戦に勝てば無条件で初出場がかかった試合で、最後の最後にショートコーナーから得点を決められて、出場を逃してしまったことをいう。不可解な一箇所での開催変更、地獄から天国へと言う状況。も、あってようやく決められるかと思ったらこの仕打という意味もあって、最後まで油断するなという教訓にもなっている。ちなみにこのときテレビ中継をしていたのはテレビ東京。まさかの視聴率50%超え(しかも深夜帯)を記録することになった。

 <マイアミの奇跡>……96年アトラントオリンピックのサッカーの初戦。最強クラスのメンバーを揃えてきたブラジルに対して、その猛攻に耐えに耐え相手の守備の連携ミスから奪った1点を守りきった。一瞬本当に奇跡かと思えるのだが、その後ろには事前からしっかりとした準備があったことは付け加えておく。しかしこのブラジル戦で疲れきってしまい、次の戦いでは敗戦。最終戦には勝ったものの得失点差でオリンピック予選で2勝しながら、予選落ちしてしまった。
 <関連>マイアミの屈辱(ブラジル側から見て。そりゃ相手は格下日本のそれも2軍メンバー相手なんだし)

 <ムアンバの奇跡>……イングランドの各年代の代表を務めてきたムアンバを襲った突然の悲劇。FAカップのトッテナム戦の時に急に倒れてしまった。しかも心肺停止状態に。ピッチにいた誰もが死を覚悟したのだが、偶然とツェフの一件からの教訓で救急体制他整っていたこともあり1時間以上心臓が止まっていたにもかかわらず何とか一命を取り留める。フォエの悲劇などにみられるように選手が突如としてピッチに倒れて、そのまま亡くなってしまう(しかも世界にその姿を晒してしまう)ということが頻発していたために、まさにこのことは奇跡的だった。しかしその代償はかなり大きく、この年でムアンバは引退を余儀なくされてしまう。
 <関連>ツェフ(チェコ代表の正GK。試合中に大怪我をして搬送するのに30分も待たされた。このことからプレミアリーグの救急体制が整えられることになる)カヌ(心臓手術を経験)・フォエ・プルエタ・フェヘル(この3人はサッカーの試合中に命を落とす)・ファン・デル・ファールト(第1発見者で相手チームの選手。一番の功労者)

 <なでしこジャパンの軌跡>……東日本大震災のあとに開催されたドイツ女子サッカーワールドカップでの日本の軌跡。それまでの4大会では大戦的には大きく負け越していてよくて決勝トーナメント1回戦止まりだった日本だったのだが、この大会は違っていた。予選はイングランドには負けてしまうものの2勝1敗で切り抜けると、準々決勝で難敵ドイツを延長線の末に破り、準決勝でもスゥエーデンを完勝という形で破る。決勝戦は一度も勝ったことがない王者アメリカ。しかし先制をされるが、追いついて延長線へ。ここで、相手エースワンパックがヘディングシュートを決めて1−2に。敗色濃厚だった後半12分に、コーナーキックからエース澤が値千金の同点ゴール。これでPK戦に突入。ここでGK海堀の驚異的なスーパーセーブと枠はずしがありアメリカが3人連続で失敗。一方日本は1人は外すものの残り3人はきっちりと決めて3−1で勝利。アジア初のフル代表の世界一という称号と、震災で沈んでいた日本を元気づける優勝だった。
 <関連>「そのもの青き衣をまといて金色の野に降り立つべし」(風の谷のナウシカからのセリフ。とれた写真の一枚がまさにこの姿そのものだったこと)・澤穂希の強力なリーダーシップ

 <ジョホールバルの歓喜>……フランスワールドカップ予選。アジア第3代表決定戦で、日本とイラクが激突。点を決めたり決められたりの状況で、試合はサドンデス方式の延長戦に。ここでスーパーサブ岡野雅行が起用される。驚異的なスピードを持っていた岡野はゴール前に頻繁に顔を出すものの、決められる状況でパスを出すチョンボもあり決められず。このままPKかと思われた時に、中田英寿のシュートのこぼれ球を岡野が押し込んでワールドカップ初出場を決めた。
 <関連>一人スルーパス・世代交代(この試合それまで日本の象徴だった三浦知良を交代させたことから。このあとのワールドカップ直前の合宿の最終選考でメンバーを外れたことから、監督に対して大批判が巻き起こる)

 <カルチョスキャンダル>……イタリアで起こった大騒動。組織的に審判を買収して判定を有利にさせようとしたことが発覚。その規模と時期、さらにはその中心にいたのがイタリアを代表するクラブであるユベントスだったことから、世界中で衝撃が広がった。おまけにユベントスのトップの一人が作り上げたシステム故に、それに従わないチームに圧力がかかったことも暴露される結果に。結果的にシステムを作ったモッジを始めとした有力クラブの会長が資格停止になり、チームとしてのユベントスは2年間の優勝を剥奪された上に2部に降格してマイナスからのスタート。さらに関わったとされる一部のクラブもマイナスからのスタートという処分に。
 <関連>インテル黄金時代・八百長・モッジシステム(別名)

 <評価点10,0>……サッカーには個人の活躍を数字で表すというシステムが有る。新聞によってまちまちだが、基本的には10点制で、5,5から6,0が平均。そこから活躍度に応じて加算されたり、減点されたりする。しかし最高の10,0というのは基本的には出ない数字。で、その10,0を出したのが二人いる。1人はバッジオ。チャンピオンズリーグに出場する試合でパルマ相手に、先制ゴールと決勝ゴールを叩きだしたことが好評化されてのこと。で、もう一人がアレッシオ・スカルピという無名の選手。カリアリ時代にチームメイトが相手との衝突で呼吸困難・心臓停止になっている時に、まだ試合が進んでいるにもかかわらず人工呼吸が評価されて、辛口批評がメインの新聞が「命は地球よりも思い」という賞賛も込めて10,0を出したのこと。強烈なプレーとそれと同じぐらいの行為がなければ簡単には出ないということなんだけど、ワールドカップで優勝した時の評定はかなりゆるゆるでの時には10,0が乱発しやすいのもなあ……(故に除外しています)

 <2002の恨み>……サッカーワールドカップで韓国がやらかしたことの総称。予選トーナメントではそれほどの動きはなかったものの、決勝トーナメントに入った段階からとんでもないことが起こり続けている。FIFAの誤審ランキングに入るほどのことを何度もやらかして、イタリア・スペインの恨みを買ってしまう。決定的なシーンでの誤審が多く、これが全世界の韓国サッカーシーンに対する冷たい目を注がれる結果に。結果現在でも2010のワールドカップ16強に上がるほどにまで成長できたはずなのに、強化試合がうまく組めないという状態に。もっとも招致の段階から実弾攻撃を飛ばしに飛ばしまくっていたこともあったのと、その前のフランスとの親善試合でジダンを壊したこともあって恨みが一気に膨れ上がったのだが。
 その先のドイツ戦では慌てたFIFAが掟破りをして不名誉を打ち立てなかったのだが、サポーターが今度はバカをやらかし日本で嫌韓の流れを生むきっかけになった。

 <ロンドンオリンピックプラカード事件>……ロンドンオリンピック3位決定戦で日本と対戦して勝った韓国が、竹島は自分の領土だというプラカードを掲げて場内に入ってきた問題。政治的な思想を嫌うFIFAはすぐにこの問題を取り上げて、調査を開始。(IOCはこの調査を待って動く)しかし竹島問題で浮かれすぎていた韓国政府・国民は、このことを問題視しないばかりが英雄視してしまったばっかりに自分で自分をどんどん追い込んでいることに気がついていない。しかもサッカー協会に対して介入的調査までやってしまう。これがFIFAの逆鱗に触れる形になり処分がどんどん伸びていく。そもそもの竹島問題自体が初代大統領の強固の反日姿勢が生んだものなのに、本来のことに気がついていないふりをする。さらに竹島に外国記者を案内して領土問題を内容にしようとして、逆に紛争と報じられて失敗をするなど、韓国サイドの事の重大さを理解していない行動が目立ちすぎる。処分は望んでいたものよりもかなりくるくなってしまったのだが、それ以上に八百長事件のほうが問題になってしまい、ほぼ代償として30人以上の関係者が永久追放になってしまったとのこと。しかしこれがお咎め無しに近い状態になると、中東あたりだともっとアピールみたいのが出てくるようなきがするんだけど。
 <関連>領土問題・猿・スケート(この2つ)・2002の呪い・FIFAの腐敗疑惑・アキヒロの意味のない政治的パフォーマンス・ワールドカップ誘致現生大量バラマキ疑惑・FIFA腐敗疑惑

 
野球

 <世紀の大誤審(野球)>……第1回WBCの日本対アメリカ戦とその後のアメリカ対メキシコ戦で発生で発生。タッチアップの時にスタートが早かったのではないかとアメリカのクレームが付いて、アウトになってしまう。実際はそんなことがなく、ちゃんとした正式なスタートだった。これがきっかけで日本は敗れることになるのだが、次のアメリカ対メキシコ戦でも、タッチアップの失敗で帰ってきた選手がアウトになったのだが、これが認められず。さらに正当なホームランが認められなかった。これに怒ったメキシコ側が既に敗退寸前で前日に遊んでいたという状況にもかかわらず、世界最強と言われたアメリカに対して勝利。アメリカを予選落ちにさせる屈辱を味合わせる。日本はこのおかげで決勝トーナメントに進出でき、結果初代チャンピョンに収まる。
 とはいえ、この審判。かなり能力がないんじゃないかと思うんだけど。これ以外にも重要な試合で大誤審をしているし。何故か日本にいた経験のある人間とのトラブルが多いし。
 <関連>巨人の選手のチョンボによる大誤審

 <ルールブックの盲点>……漫画ドカベンで出てきた、一つのプレーが巻き起こした波乱。内容はスクイズのダブルプレー成立の間に、ホームインした選手をアウトにしなかったことから入った1点をめぐって、大批判が巻き起こったことから。有名プロ野球選手も作者本人にクレームをつけたほど。ただルールブック上では立派に認められるルールで、今ではルールブックをしっかり読んでおくための一つの教材としてつかわれている。ちなみにこの状況が出てきたのは日本の高校野球で3度(ルールブックのとおりになったのは二度)・大リーグでも1度(もう一度あったような)記録されている。ちなみに起こりやすいのは取った時のプレーがファインプレーだった時。周りを見ている選手が一人でもいれば起こらないはず。
 <関連>振り逃げ3ラン・さよならインフィールドフライ(両方とも神奈川県予選で発生。大ボーンヘッドの実例)

 <巨人V9>……1965年から1973年まで巨人がずっと日本一だった時代のことを指す。この時の巨人は主力選手が油に乗り切っていて入ってくる新人も有望株がお多かったことから戦力的に一枚も二枚も抜けていた。しかもチーム優先主義をとっていたため、基本的な戦術が今でいうスモールベースボール。それゆえに選手を流動的に使いまくるということがあり、安定した戦力の確保ができなかったという側面ものぞかせている。ただ打撃に関しては中心に王・長嶋がいた事もあり、それが中心軸として活躍できたのがこのV9につながった。
 しかしこの時代は同時に巨人に対する低迷期の助長をもたらす。基本的にスタメンをいじることがなかったがゆえに競争意識がなくなってしまったこととあわせて、主力の高齢化による後継者探しもうまく行かなかったこと(投手陣は割合うまく言っているのだが、野手陣はほぼ固定)もあり、潜在的な戦力は徐々に落ちてくる。1974年に優勝を中日に奪われると監督・長嶋・森などが引退。翌年には監督に長嶋を据えるが球団史上初の最下位で終わるなど、混乱期に入っていく。解決策として巨人が求めたのが外からの選手獲得。これがのちのFA選手買い・若手選手青田買いなどにつながってくる。

 <湯口事件→ドラフト1位から3位入団拒否事件>……V9時代末期に巨人を襲った1人のドラフト選手の運命を壊してしまったとされる事件。1970年にドラフトで指名された投手が、散々いじられて壊された挙句にうつ病を発症。さらに当時の二軍監督(ノーヒットノーラン2回・野球殿堂入りするレベルの選手)からの暴行もあり、うつ病が悪化。そのまま入院をさせて一度は回復をしたのだが、キャンプ中に再発。東京に強制的に戻された直後謎の死を遂げてしまうという事件。死因は心臓麻痺とされたが、その前のうつ状態に追い込んだ巨人に対してバッシングの嵐。特に監督・2軍監督(後に元寮長が出した本でも批判されている)に関してはその中心的ターゲットになった。
 しかし波乱はバッシングだけでは終わらない。73年のドラフトでは5人指名したうちの4人が入団拒否。しかもドラフト1・2・3位が入団拒否という異例の事態になり、これと湯口事件を結びつけてさらなる大騒動に。(ただし実際湯口事件を拒否の理由にしたのは2位の選手だけだった)巨人ブランドの凋落の始まりになったこの事件で最後にとどめを刺したのは監督。長嶋解任騒動に口を出してしまうような発言をしたのと、前から言われていたチーム内分裂が確証的に。結果的に巨人ブランドが年をおうごとに凋落していくきっかけになってしまった。
 <関連>監督の人格的問題・名選手名監督(伯楽)にならず

 <西武黄金時代>V9巨人以後のや球界の盟主になった西武の黄金時代。一般的には1986年から94年の森祇晶が西武監督として就任していた時期のことを指す。この間西武がリーグ優勝を飾った回数は8回。日本一の回数も6回と、まさに西武が球界の盟主だった時代だった。しかしこの間に監督とオーナーの間に溝ができたりと決して盤石とはいえなかった部分もある。
 というか西武黄金時代のスタメンレベルの選手は今で言うと各チームの顔レベルの存在が集まっているだけに、ある意味凶悪さに関してはV9巨人以上のものを持っている。皮肉にもそれを作ったのがV9時代の巨人の正捕手だったというのは皮肉な話だけど。
 <関連>

 <10・19>……常勝軍団西武を追い詰めた近鉄は1988年優勝を最後のロッテ戦ダブルヘッダーにかけていた。初戦は最後の大ピンチもエース阿波野が何とか踏ん張り4−3で勝利。問題になったのは2戦目。4−4のまま9回裏に突入。ここで牽制球をして選手をアウトにしたのだが、このことに攻撃をして監督と選手が9分間の抗議をする。この攻撃が大きな明暗を分けることになる。延長に入るも、攻撃が終わり規定時間残り3分ではどうしようもない。結果的に88年のペナントレースは西武のものとなった。
 <関連>……阪急、オリックスへ身売り(同じ日の夕方に発表される)

 <ブライアント4連発>……↑の翌年。近鉄と西武とオリックスの3球団で優勝争いをしていた。この年の10・12の西武対近鉄のダブルヘッダーで生まれた記憶に残るホームラン。最初の試合は西武が4点先制。これで勝負ありかと思われたのだが、近鉄が……と言うよりもブライアントが大爆発。追撃のソロホームランを上げると、次の打席には同点満塁ホームラン。さらに変わったエースから決勝のソロホームランを打つという一試合3連発を記録して勝利。さらに次の試合の第1打席も、先制の2ランを打つ。この2点は追いつかれるものの、その後近鉄打線が大爆発。終わってみれば14−4の圧勝で、ダブルヘッダーを連勝した。このままの勢いを自足させ近鉄はリーグ優勝を迎えることととなった。
 <関連>仰木マジック・いてまえ打線・代打逆転サヨナラ満塁リーグ優勝決定ホームラン(2001年・北川博敏によって)

 <松井秀喜5打席連続敬遠事件>……1992年の夏の甲子園のこと。既に超高校級と言われるぐらいの能力を持っていた松井秀喜に対して、対戦相手の明徳義塾が取ったのは全打席敬遠。松井に対して勝負をさせないことと、5番が完全に沈黙させられたことで明徳義塾は勝利を得るのだが、このあとの明徳義塾のメンバーに大ブーイングが浴びせられる。高野連にも注文がつけられた挙句、完全に悪役回ってしまい、このあとから周辺からの罵声と戦うことになり練習もままならないことに。結局次の広島工業戦で大敗を喫してしまい罵声を浴びせ続けられるままに甲子園を去ることになった。(最もこの試合の最大の被害者はこの試合に投げた予備のピッチャーと星稜の5番だが)その後明徳義塾は普通に甲子園で優勝をするようになり、さらには四国随一の名門になるのだが、2012年の県大会決勝で同じ事をするなど、勝利のためには汚い手を使うという印象が拭えないチームになってしまった。
 <関連>ドカベン「山田太郎4打席連続敬遠」・エースの故障(ドカベンのケースもこれだった)・新庄剛志(敬遠球を売ってサヨナラヒットに)・異例の国体出場(星稜側)

 <延長17回>……いつもの大会よりも代表が多かった甲子園でおこった伝説の戦いと言うよりも死闘。準々決勝第1試合PL学園対横浜の試合でそれはおこった。2回裏の攻撃でPL学園が3点先制。しかし横浜も粘りを見せて5回に4対4で追いつく。ここから我慢比べが始まる。PL学園が点を取れば横浜が追いつくという展開になり5対5で延長戦に突入。延長11回に横浜がリードするのPL学園が追いつく。さらに16回でもリードを奪うもののまた追いつかれると言う展開に。甲子園関係者も再試合を意識し始めた頃に、横浜に決定的な2ランホームランが飛び出し、横浜がその裏を制して準決勝に進出。投手・松坂大輔はこの試合で250の弾数を投げ、このことが投手の方の酷使の問題ということも合わさって延長の規定が15回に短縮されるきっかけになった。(しかし今度は引き分け再試合が多く乱発されることになる)この勝利の後横浜は明徳義塾を逆転で下し、さらに決勝では京都成章を相手にノーヒットノーランをすることになる。
 ちなみにこの大会。松坂のための大会と言われているのだが、数多くのプロ野球選手の主力級選手を数多く生んだことでも有名。杉内・古木・森本・實松・和田・新垣・村田と数多くの名選手を排出したことから、この世代を松坂世代と呼ぶ。
 <関連>明徳義塾(準決勝で横浜から大量リードを奪うものの、松坂の登板を気に機運が一気に逆転。そのまま逆転負けを食らうことに)・上重聡(敗戦投手・後の日テレのアナウンサー)・勝って涙、負けて笑顔・横浜フィーバー(横浜ベイスターズもこの年優勝)・早稲田実業対駒大苫小牧(決勝戦延長15回再試合)・板東英二(延長18回規定を作るきっかけ、1大会総奪三振数の最高記録・1試合最多奪三振数の参考最高記録を持つ)

 <空白の1日>……選手の入団に関しての空白のルールをついたもの。巨人一筋を願っていた江川卓は一度目のドラフトを拒否すると大学へ。その次のドラフトを拒否すると母校の職員に鳴るのだが、ここでどうしても江川は欲しかった巨人が規約の穴を突いて強引に江川と契約。しかしその次のドラフトでは阪神が強行指名(と言っても巨人に対しての抗議の意味で)。巨人はその前の談話に反発してドラフト会議をボイコット。揉めに揉めた末に巨人が江川の契約を一回解除して、江川と阪神が契約。その次の瞬間に当時の巨人のエースだった小林薫とのトレードでめでたく巨人に行く事になった。
 しかしこの一件でもともと傷ついていた巨人のイメージがさらに悪化したのは言うまでもなく、江川に対する風当たりはもっと強くなる。このトレードを仲介したとされるコミッショナーは辞任、戦力的に大きなマイナスを巨人はさらにかぶることになりこの年小林から勝利を奪うこと(8敗)ができなかった。
 ちなみにこの問題いちばん割りを食ったのは最初に江川を指名したクラウンを買収した西武。江川の一件で読売との関係が悪化。さらに松沼兄弟入団も騒動もあり、双方が双方の広告を締め出す自体にまで発展。さらにアメリカでの江川の後見人が三菱関係者だったこともあり、西武の会社の持つバスや系列の小売店にいたるまで三菱製品が完全排除される事態に。
 <関連>落合博満(江川の外れ予定→結局ロッテに)・元木大介・荒川尭・長野久義・小池秀郎(いずれも一回目のドラフトを拒否した選手)・湯口事件・巨人ドラフト指名選手3人入団拒否

 <KKコンビとドラフト>……甲子園を沸かせたPL学園の二人の選手の周辺(とくに巨人)がやらかした前代未聞のドラフト劇。投手桑田真澄は最初早稲田大学への進学を表明したいた。一方の清原和博は巨人入りを熱望していた。この状況のまま迎えたドラフト会議。巨人がここで何を思ったのが大暴走をして桑田を1位指名してしまう。背景にはいろいろ言われていたのだが、どうもKK総取りを狙っていたのではないのかという節が有力だとか。清原は巨人入りを熱望していたし1位指名の確約まで取り付けていたという報道まであったので、この巨人の行動には周辺も唖然となった。結局清原は6球団の指名の後に西武(この西部が開始名で桑田を撮ろうとしたのを阻止するというのも原因)に指名されて入団。一方の桑田はごねまくった末に巨人に入団。この行動が学業的にも大きなマイナスをPL学園に呼び込んだとも言われているのだが、ある選手がプロ野球に入団した時に、半壊に近い状態だったことを考えると体作りのために大学野球に身を投じるのもどうなんだという疑問もあるだけに、色々と論議を呼ぶ話にはなっている。
 <関連>田中将大と斎藤佑樹(大学に行かずにプロになって大投手になった人間と、プロにいかず大学に行ったら大きく水を開けられてしまった人間との対比で使われるケース。この二人は甲子園の決勝で投げ合っている)

 <1リーグ構想とストライキ>……2004年に起こった近鉄のプロ野球団撤退による、1リーグ構想とそれに対する選手会や世論の批判との抗争。きっかけになったのは近鉄の経営能力の悪さからくる球団経営の撤退。もともとプロ野球糾弾は一部の糾弾を覗くと赤字経営が多く、そのため糾弾そのものがほんとうの意味でのお荷物になっていた。そこで近鉄はオリックスとの合併に動き出したのだが、これを利用しようとして1リーグ制を導入しようとしたのが巨人のオーナー。これに選手会が噛み付いたのだが、その時の暴言がきっかけになり。選手会と世論対オーナー側の図式に発展。これがプロ野球史上初というストライキを引き起こすことになる。
 ついでに。当のオリックスと近鉄の合併は周りの反発とは別に粛々と進み結果的に合併が成立。その後楽天とライブドアのどちらかで球団を持つかということになった時に、アンチライブドア陣営からの攻撃もあり楽天に決定したのだが、その時の楽天のスタイル変更によるユーザーの反発も招く結果に。この騒動をきっかけにして表面化しつつあった野球離れが一気に加速。その影響はテレビ中継の激減と視聴率の低迷を招くことになった。
 さらになんで1リーグがいけないのかというと、下位チーム同士の試合に客が入るのかという問題が生じるから。万年最下位とかのチームだったらチーム愛で来る客は出てくるかもしれないが、Bクラス上位のチームだとそう簡単に来るはずもないわけで、そうなると球団の戦力格差がさらに広がる。当時1リーグが持ち上がった段階で、巨人だけで紅白戦でもやっていればいいんじゃないんかという嫌みがでたほど。
 <関連>地方リーグ・ナベツネプレイ(金さえあれば優勝は簡単に取れるという考え方。大金を湯水のごとく使うことから反発が強い)・オリ鉄・岩隈移籍(移籍問題で揉めた)・一場栄養費問題(この問題最中に浮上。巨人入り確実と思われながら、巨人入りが不可能となり結局楽天へ)

 <トルネード野茂>……アメリカでも大リーグのストライキがあった。年俸の高騰によるサラリーキャップ制(上限制)を導入しようとした機構側と選手会側が反発。さらに調停も失敗したこともあり94年の大リーグのペナントレースがストライキによって強制終了されることになってしまった。球団側のダメージも大きかったのだが、一番ダメージが大きかったのは選手。まさかの人気凋落という自体になり、さらにサラリーキャップ制導入が見送られたことから、開幕にこぎつける。しかし人気凋落に歯止めがかからなかったのだが、ここで一人の日本人投手にスポットが浴びることになる。監督との起用法などめぐって球団とトラブルになり日本で野球ができなくなっていたエース野茂英雄。彼の投げ方と、わかっていても打てないと言われるフォークを武器に数多くの三振を奪う。しかも大リーグルーキーで先発投手を果たすという偉業も果たすなど、日本人が大リーグでやれるということを証明してみせた。1年目のシーズンが終了して、新人王・最多奪三振のタイトルを獲得。さらに伝説を生み出し、異なるリーグでのノーヒットノーラン2回、大リーグ初のホームラン、怪我を何度も追いながらの2度めの最多奪三振のタイトルなど数多くの伝説をつくり上げることになる。

 <背番号42>……アメリカの大リーグは戦後直後までずっと白人だけのもので、黒人を始めとした他の人種は別のリーグを開催していた。それぞれに名選手が多く誕生するのだが交わることがなく、時代だけが過ぎていった。その状況を一人の黒人選手とそのチームのオーナーが変えていく。ジャッキー・ロビンソン。マイナーリーグで好成績を収めていた彼はメジャーの一因としてブルックリンドジャース(今のロサンゼルスドジャース)に昇格。人種差別が激しく、選手間でもドジャース以外のオーナーがすべて反対という逆境の中で、実力で自分の地位を獲得していく。足のある中距離バッターとして2番として活躍して、周囲を黙らせる活躍を見せ、49年には首位打者・盗塁王・MVPの活躍を見せる。56年に引退。その後彼がつけていた背番号42は全球団での永久欠番(ただし当時の現役がつけていた場合はつけても構わない)になり、2013年のリベラの引退を期にすべてのチームで背番号42が永久欠番になった。

 <三振かホームランか>……アメリカにアダム・ダンというメジャー選手がいる。この選手低打率のスラッガーでシーズン最低レベルの打率を何度も残しながら、ホームラン・打点ともに一流の成績を残す選手である。特筆すべきは三振の多さ。他の選手の遙か上(歴代選手も含む)のペース三振の山を作り上げて史上最速ペースで2000三振という物凄い記録を打ち立ててしまう。(シーズン最多三振を作るものの、もっと上の記録保持者が出てきてしまう)今いるシカゴの一年目のシーズンだけが極端に悪い成績で打率にさえ目をつぶればいい選手(もっといえば併殺の数も少ない)なのだが、個性派だらけのメジャーの中でも別な意味の個性を放っている。

 <一場栄養費問題>……野球再編問題と絡む形で発生。近鉄問題の時の目玉として巨人入りがほぼ内定と言われていた一場が、その市場に野球協定に違反する現金を栄養費と称して渡していたことが発覚。さらに横浜も彼に現金を渡していて、阪神も渡していたことが発覚。巨人は幹部の大量処分とオーナーの辞任→会長就任という謎人事、横浜と阪神はオーナー辞任。一場本人はこれらの球団以外からも指名はないと思われていて、本人もアメリカに行く格好になりかけたのだが、ちょうどできた楽天に救われる格好でプロの世界に。しかしプロの世界は甘くはなく16勝33敗という成績で、トレード先のヤクルトから戦力外通告を受けてしまった。ただし年に一回はとんでもないピッチングをしていて、西武の西口の完全試合を阻止する回答を見せたことがある。
 <関連>那須野(同じくプロ野球の闇の中にいるとされる一人、規定違反の超高額契約金)
 
格闘技

 <リング禍>……ボクシングやプロレスなどにおいて発生した負傷案件や死亡事故のこと。ボクシングの場合は頭を叩かれることが多いことから試合中に脳出血などを起こして倒れるケースが有り、またプロレスの場合は全体的に強い衝撃をうけることで、大ダメージを受けることがある。対策としてボクシングではコーナーに防御的なものとしてのビニールカバーを設置、15ラウンドだったのを12ラウンドに短縮、ヘッドギアの装着禁止(つけていると脳へのダメージが膨れが上がる)などの対策が取られている。
 プロレスの場合でも死亡事故が絶えず、特に1990年代行からは受け身が取りづらい危険な技が多用された結果、死亡事故に発展することが多くなった、一番有名なので言えばあるプロレス団体の社長の死亡事故。バックドロップをまともに受けたのが原因なのだが、それ以前にこの社長が過激な戦いを繰り広げていたりして首に相当の蓄積された疲労が溜まっていたという指摘があるほど。死亡事例は日本においては4例。女子プロレスと男子プロレスともに2件ずつ発生している。

 <世紀の大誤審(柔道)>……柔道無差別級決勝戦での出来事。内股すかしが決まって一本かと思ったら逆に有効を取られるという誤審。結果的に判定としては双方技が決まっていなかったと判定されたのだが、結論は覆らなかった。しかしこの2人がまた対戦した時にも誤審が起こるなど、審判のレベルが上がらないという絶対的問題を表した問題になっている。

 <かわいがり殺人事件>……相撲で稽古をつけるという意味で使わるのが「かわいがり」。しかしそれが制裁に使われて、しかも死に直結してしまうという相撲界にとっては永遠の痛恨事の一つ。きっかけになったの人間関係の問題から脱走したのを連れ戻してその制裁から。愛知県警がまともにやらなかったこともあり、遺族は肢体の鑑定を地元の新潟県警へ依頼。結果暴行死だったことが発覚をして、大騒動に。当時の時津風親方を含め4人が逮捕される。相撲協会は親方を解雇するなど動きが早かったのだが、のちの事件を見ると臭いものに蓋という精神が見え隠れする。
 <関連>野球賭博事件(後を継いだ元力士が関わっている)・相撲八百長事件(同じ)・柔道パワハラ問題

 <朝青龍引退騒動>……横綱朝青龍が、バーで飲んでいる時に暴行事件を起こした。一度ならずも過去に色々問題を引き起こしたために、相撲協会が朝青龍に引退を迫り朝青龍も引退を認めたという事件。これで問題児朝青龍がいなくなったことで、相撲協会に安堵の溜息があったのだが、すぐ真下に開いていた大穴には気が付かなかった。問題児でありながらヒール役もやっていた朝青龍はかなりの人気があり、対抗する白鵬は当時には人気がまだまだだっという状況。この状況かで起こることといえば当然相撲人気の落下。まだ朝青龍がいたから持っていた視聴率が落ち始め、白鵬の強さだけが目立ち始めるとさらに落下。さらには相撲業界自体の自滅行為により、相撲そのものが存続の危機に立ち始める。
 ちなみにこの朝青龍の被害者とされる人は、幾つかの事件で名前が上がってきているほどの問題のある人物で、その後某有名人が関わった麻薬事件でやる気ない捜査をしてしまった所轄に変わって、警視庁本体が捜査に乗り出した時に逮捕されている。ついでに、有名芸能人の引退劇にも、この人の名前が浮上しているとか。それゆえに警視庁はこの人物の元となっている組織つぶしに全力を上げている模様。
 ただ朝青龍にとって運が良かったのは↓の事件に巻き込まれなかったこと。
 <関連>野球賭博事件

 <野球賭博事件>……週刊誌報道から火がついた事件。大関琴光喜が野球賭博に参加していたとされう週刊誌報道がきっかけに、捜査が表面化。琴光喜などは否定をしていたものの、6月の中旬に入った頃には相撲協会があったと発表。自己申告で琴光喜も認めたのだが、問題だったのはその後。聞き取り調査の段階で65人の力士や関係者が野球賭博を始めとした各種賭博をしていたことが発覚。さらに野球賭博の裏には暴力団の存在があり、結果として相撲協会内を含め異例の大規模な家宅捜索も行われた。結果的に仲介役とされる(元)現役力士を始め4人が逮捕。大関琴光喜は解雇。優勝経験のある力士、さらには親方二人も処分を受けるなど、大相撲になって以来の大きな事件になったのだが、まさかこの事件がもっと大きな事件を呼ぶとは誰が想像したのか……
 <関連>暴力団との関わり(観戦問題)・公益法人化・名古屋場所中継中止・タニマチ

 <相撲八百長問題>……↑の事件の捜査の最中に発覚をした事件。基本的に八百長はやっていないとして、元力士や記者などに対して圧力をかけていた協会だったが、八百長の存在を明かしたメールが上の事件の捜査をしていた警視庁からもたらされると、一気に表面化。いままでの問題の累積もあり、相撲協会に対する不信感が一気に高まる。結果的に迫っていた春場所が中止に追い込まれ、さらにはその後の5月場所が技能審査場所になりテレビ中継がなし。地方巡業もなしという結論になった。
 処分に関しては野球賭博問題以上の処分者を出すことになる。最初に関わったとされる19人が引退に追い込まれる。さらに長期出場停止などの処分も下り処分に反発をした親方1人が解雇される。しかし最大の問題は相撲協会の体質が、おもいっきり時代にそぐわないこと。これをきっかけに改善しようとしているものの、ついたイメージはそう簡単に取れるはずもなく、しかもいままでのことをすべて否定する出来事だったことから。二次的効果として判決を下した裁判官に対する不信が支配するようになった。
 ただ皮肉にもこの一件のお陰で東日本大震災の直撃を食らうことがなかった。
 <関連>親方株取引問題
 
体操・フィギュアスケート

 <フィギュアスケート採点ブーイング事件>……ソルトレイクオリンピックで発生。フィギュアスケートのペアでフリーで一回ミスをしてしまったペアよりも、ノーミスで終わらせたペアが最終順位が低くなったことに関して観客が大ブーイング。さらにアメリカとカナダのマスゴミが文句をたらたらと言い続けた結果。採点方式が大きく変わってしまったという事件。結果的に不正をしたとされるフランスの審判を除外して双方金メダルという、一番まずい結果に終わった。(ついでに混乱の要因を招いたのは女子フリー。大逆転こそ稀にあるのだが、順位点を採用していたのでかなり混乱を招くことになってしまった)
 しかしその採点基準が変わったら余計にわけ側かな楽なったというのも事実。秘密主義を採用したせいで採点基準がまったくわかっておらず、しかも成功基準を満たしているのに失敗扱いになったり成功扱いになったり。挙句の果てにはバンクーバーオリンピックにおけるキム・ヨナの意味不明の爆上げ加点がついたりと競技そのものあり方を壊してしまいそうな事態になっている。

 <疑惑のジャッジメント(フィギュアスケート)>……↑のことにシステムが変わってから起きたフィギュアスケート界そのもの存亡に関わるような大問題。バンクーバーオリンピックを前にしてからある選手の得点力だけが異常に高いことが問題視され始める。その選手は確か実績はあるのだが、新審判基準で照らしあわせてみると、やや微妙(ただしほぼ確実に)に外しているような状況だった。機械的に見れば認められないのだが審判団が認めまくったことで審判や採点に対する不信が高まってくる。その頂点になったのがバンクーバー・オリンピック。この時の得点は男子と合わせても上位レベルに行くぐらいの得点で、しかも対抗が転んでしまって点が思った以上に伸びなかった。(成功してたら、恐らく寸前まで無理やり伸ばしていたのではと言われている)こともあり、宇宙爆加点といわれるレベルになってしまった。オリンピック後いろんな疑惑も飛び出すのも当然だが、スケート会長が採点基準を自画自賛をして逆に叩かれて以来周辺も沈黙。この状態で何が起こったのかといえば大技にチャレンジをする女子選手が激減。競技の技術レベルの低下を招いてしまっている。ちなみにキム・ヨナ復帰後でも同じようなジャッジメント疑惑はついてまわっている。
 <関連>複数競技型種目、オリンピック採点競技不要論、金銭授受疑惑に不透明ジャッジメント

 <体操裁定ブーイング事件>鉄棒の種目別決勝で、ある選手の得点が低かったことから会場中が大ブーイングをしたという事件。あまりにもブーイングの時間が長く、結局演技者が出てきて静かにするように求める事態にまで発展。
 結局体操競技もこのオリンピックの後に採点基準が大きく変わることに。これによって技の難易度が細かくなっていってAからGまで大きく分類されることに。それ故に技のチョイスによっては大きく順位が変わる可能性がでてきた。

競馬・用語編 
わからない人のために簡潔に

 <マイル>……普通の単位上ではは約1609メートルだが、競馬では1600メートルのこと。1マイル半をクラシックディスタンスという。

 <クラシック>……牡馬3歳限定のG1レースのこと。日本だと皐月賞・ダービー・菊花賞。牝馬だと桜花賞・オークス。この5競争のことを指す。本場イギリスでは2000ギニー、ダービー・セントレジャーが3冠に当たるのだが、名馬ニジンスキーが3冠を取った後の凱旋門賞で敗れたことから価値が急落。セントレジャーが急速に価値がなくなってしまい40年以上3冠が出てこない事態に。さらに2000ギニーがマイルのレースなことから、そのまま勝ち馬がマイル路線に突っ走ってしまうことが多くなった。
 アメリカの場合はとくに各短期間のうちに3つのレースをこなしてしまうのが特徴。ケンタッキーダービーはアメリカ競馬を代表するレースとしてあまりにも有名で日本からも挑戦をしてくる馬がいるほど。(日本人がオーナーで優勝した馬はいる)こっちの短期間でレースをすることが多いせいか、三冠馬は30年以上出ていない.。2015年にアメリカンファラオ(登録ミスでいろいろな呼び方があるがこれで行く)が30年以上ぶりに達成。

 <三冠馬>……牡馬クラシックレースを制した馬のこと。セントライト・シンザン・ミスターシービー・シンボリルドルフ・ナリタブライアン・ディープインパクト・オルフェーブルの7頭。

 <牝馬三冠>……桜花賞・秋華賞。旧エリザベス女王杯もしくは秋華賞を制した馬のこと。牝馬の場合最後のレースはクラシック扱いではないし、3つのレースのエリザベス女王杯が古馬混合の牝馬1位決定戦になり、新しく3歳限定線として秋華賞が創設。距離も2000Mに短縮されている点に注意。エリザベス女王杯の時にメジロラモーヌが、秋華賞時代にはスティルインラブ・アパパネ・ジェンディルドンナが3冠を制している。

 <8大レース(8大競争)>……皐月賞・ダービー・菊花賞・桜花賞・オークス・天皇賞春・天皇賞秋・有馬記念。グレート性が導入される前まではこの8つの競争が競馬関係者の間では目標だった。言い換えれば前時代の遺産でこの時の天皇賞秋は3200メートルでグレート正導入とともに2000メートルになった。今では天皇賞春の価値が最近の競馬の特徴から落ちてしまい、さらにジャパンカップが8大競争以上の価値を持ち始めたこともあり、やや感じが硬変わり始めている。

 <公開調教>……レースなのに勝ち馬が圧倒的すぎてまるで調教のように見えてしまうことから。セクレトアリトのベルモンドステークスはまさにそんな感じ。後の有力馬の新馬戦なんかがよくこの状態になることも。

 <カラ馬>……レース中に騎手を振り落としてしまった馬。この状態になるといくら良いタイムで走っても失格扱いになる。

 <脚質>……その馬にとってのレーススタイル。
 逃げ……スタートで飛び出してそのまま先頭を突っ走って逃げ切ってしまう
 先行……先頭集団もしくは先頭に近い位置に張り付いて、直線になったら先頭に立って逃げ切ってしまう戦法。割合オーソドックスな戦法
 差し……中断もしくはそのやや後ろにいて徐々に接近、直線に入って一気に追い込んで交わしてしまう戦法。これも割合多い戦法
 追い込み……直線までは脚をためるように後方に待機。直線に入ったら脚力を爆発させて一揆のゴボウ抜きで相手を抜き去ってしまう戦法
 自在……上の戦法を時と場合によってやり分ける

 <大逃げテレビ馬>…スタートから一気に飛ばしてレースの途中なのに大きく引き離してしまう馬のこと。戦法として取る馬もいるのだが、ただ単にテレビに売りたいがゆえにオーナーが支持している場合も。一見するとネタ馬のやるべきことかと思うのだが、この大逃げ戦法バカに出来ないわけで、有力馬が牽制と油断を下は故にレースとしてはありえない展開になってしまったプリティキャストの天皇賞、メジロパーマーの有馬記念のようにのようにまんまと逃げ切ってしまったというレースも存在する。

 <伝説の新馬戦>……後のG1馬が数頭も出たり、出走した馬全てが勝ち上がったレースとか、洒落にならないレース展開とかまさに今から思うとこのレースは何だったんだと思うような後かなメンバーが揃った新馬戦をさす。代表的なところでいえば(太字=G1馬)
 トウショウボーイグリーングラス・シービークイン(トウショウボーイ×シービークイン=ミスターシービー
 ワンダーパフュームマヤノトップガン(後に同じ騎手でG1制覇だが、この時は二頭とも別な騎手が乗っていた)
 アーネストリー・トールポピー・ドリームシグナル・キャプテントゥーレ
 アンライバルト・リーチザクラウン・ブエナビスタスリーロールス・エーシンビートロン(1着から5着まで重賞勝ち)
 ローズキングダムヴィクトワールピサ
 ワンダーパヒュームマヤノトップガン(後に同じ騎手でG1制覇)
 ミホノブルボンの追い込みによるレコード
 メジロブライドの新馬戦(タイムが芝1800のタイムにしてはあり得ないほど遅い&最低人気)
 ジャングルポケットメジロベイリーの新馬戦(8頭全馬が勝ち上がり、うち4頭がオープン馬に)
 リアルヴィジョンの新馬戦(巨大馬、出遅れ、直線だけで差しきった)
 
 <連対>……2着に入ること。枠番連勝の組み合わせにになることから。

 <掲示板にのる>……5着までに入ること。掲示板の着順が5着までの表示のため。

 <屈腱炎・エビ>……競走馬の筋肉が断裂して見た目がエビのように膨れがある怪我。この怪我になると競争能力はほぼ奪われたと言ってもいいレベルで数多くのうまの競走馬生命を奪ってきた。程度が軽ければ復帰の可能性があるものの、それができるのは実績もありさらなる活躍が出来る馬であり、その隔離は非常に低い。そのため競走馬にとってはガン的な存在でもある。ただし命自体には影響がない。

 <安楽死>……レース中及びそれ以外において脚を骨折してしまいそれが再起不能だと判断されると取られる処置。つまりなその場で殺してしまうということ。一見すると残酷なように思えるのだが、むしろその後、骨折した足をかばって他の足をダメにする傾向が強くなり、それによってどんどん弱っていくケースのほうが多かったりする。またサラブレット自体が内蔵が弱いこともあって、一体大きな病気にかかると苦しんだまんま死んでしまうこともある。このことから楽にしてやろうという意味でその場で殺してしまうことが多い。これでも医療技術の発達によって競馬場での悲劇は見ることが少なくなってはいるが。

 <インブリート>……その馬の血統を辿って行くと、同じ名前の馬が現れることがある。いわゆる近親交配のことだが、競馬界の場合は馬の長所を出すという意味で割合多く使われている。しかしその代償として体質が弱い馬が生まれてしまう。強くとも足が弱くて走るレースが少ないなどの弊害も出てしまう。一応奇跡の血統として3×4(祖父と曾祖父祖父が同じ)というのがもてはやされることが多いが、こういうことが長く続くと似たような血統がかたよるという弊害も指摘されている。
 <関連>フサイチコンコルド・ラムタラ(ともに強烈なノーザンダンサーのクロスを持つ)・ノーザンテースト(日本競馬会に長年君臨し続けた名種牡馬祖母と曾祖母が同じ)

 <アウトブリート>……インブリートとの逆で近親交配ではない交配のこと。血統図を見て5世代具合の間に同じ名前が見られなかったらほぼこの状態になっていると言ってもいい。比較的頑丈な馬が多く生まれるとされる。
 <関連>サンデーサイレンス(父親はアメリカを代表する大種牡馬だが、母親はマイナー血統。それ故にインブリードだらけの日本の牝馬との相性が良くて大成功を収めたという説がある)

 <ニックス>……ある系統の種牡馬とある系統の種牡馬の子孫たちが比較的相性が良くて、強い馬を大量に生産した時に初めて付けられる良い相性の組み合わせ。日本で言えば父ステイゴールドと母父メジロマックイーンの組み合わせが有名。
 <関連>ドリームジャーニー・オルフェーヴル・ゴールドシップ(いずれも上記の組み合わせ)


 
競馬出来事編
 将来ウイニングポストのリプレイ記をやるかもしれないので多めです。


 <ドラマの有馬記念>……年末に行われる競馬を知らないものでもその名前は知っている有馬記念。この有馬記念は毎年いろんなドラマを引き起こすことでも有名で、いろんな状況を生み出している。

 シンザンの見えないところからの追い込み
 トウショウボーイとテンポイントの一騎打ち
 グリーングラスの勝利
 シンボリルドルフ7冠達成
 メリーナイスのいきなりの落馬とサクラスターオーの悲劇
 オグリキャップ対タマモクロスの決着戦
 イナリワン年度代表馬を決める驚異の追い込み
 オグリキャップラストラン
 あっと驚くダイユウサク
 メジロパーマーの逃げ切り(と、ダイタクヘリオスの潰し合いという名の逃げ合戦)
 トウカイテイオー、中364日での劇的勝利(前走もこの前の年の有馬記念)
 グラスワンダーの連覇
 ディープインパクトを抑えきったハーツクライ
 ダイワスカーレットの完璧に相手を抑えきった逃げ切り
 ドリームジャーニーのグランプリ連覇
 ヴィクトワールピサの飛翔伝説の始まり

 他のレースだとここまでのドラマが生まれるのかどうかというのも、このレースの人気を高めている。

 <サンデーサイレンス旋風>……アメリカのクラシック二冠馬でブリダーズクラッシックを制覇したサンデーサイレンスがアメリカでは繁殖牝馬を集められずに、日本にやってきて起こした一団旋風。アメリカの大種牡馬ヘイローの息子とはいえ母親の血統的にいえば明らかに傍流、しかも血統から来る気性の悪さが遺伝しているのではないのかというほどの気性の荒さ。それゆえに日本でも当初は人気がなく、持ってきた牧場の関係者が自分のところの牝馬を種付けしたほどだった。しかしその産駒の中でいきなり春のクラシック4戦中3戦も勝利するという離れわざをやってのけて、一気に人気銘柄に。しかも息子・孫達が海外のレースを制するほどになり、海外でも注目されることになり、全世界に息子たちが種牡馬として輸出されることになった。しかし同時にそれはそれまでの種付けのスタイルをぶち壊すものにも。年間100頭種付けすれば人気銘柄だったものも、倍以上の種付けを要求されることになる。サンデーサイレンスが16歳でなくなってしまったもの、その子孫が着実に系統を伝えている。
 <関連>イージーゴア(サンデーサイレンスのライバルでお坊ちゃま故に人気が高かったものの、サンデーサイレンスには負け越している。ただし実力は本物でプリークネスステークスでは8馬身もサンデーサイレンスをぶっちぎる。後継はいるものの彼も早死)・ダンシングフレーヴ(ヨーロッパ最強馬。産駒が当初は活躍できなかったことと&引退後に病気になっていなければ日本に来ることがなかった)・メジロマックイーン(気性の荒いサンデーサイレンスがなぜが心を許した数少ない相手)

 <クロフネ来襲>……クロフネという芦毛の馬がやらかした脅威のパフォーマンス。NHKマイルカップを制した実績があるものの、ダービーでは5着に終わってしまったクロフネが天皇賞秋の出生を目指すものの、後にこのレースを制することになるアグネスデジタルの参戦によって流れてしまったことから、話は始まる。出るレースがなくまたダート適性があると睨んでいた調教師によってその前日に行われる武蔵野Sに出走する。ここでこの馬の真価が発揮される。同じNHKマイルを制した先輩で後にジャパンカップ・ダートを制するイーグルカフェを9馬身もちぎっての圧勝。しかも芝のレースと見間違うほどの日本レコードのおまけ付き。陣営は迷わず次戦をジャパンカップ・ダートに決める。実力馬リドパレスなどが参戦していたが、ここでも道中で先頭に立つとそのまま、去年の覇者であるウイングアローに7馬身猛者を付けての圧勝で、2100Mダートの世界新記録まで打ち立てた。このこともありクロフネはアメリカの名馬にちなんで「白いセクレタリアト」とも呼ばれるようになる。しかし伝説はここまで。翌年の目標をドバイ・ワールドカップに定めた練習中に屈腱炎を発症。引退を余儀なくされてしまった。
 <関連>ユキチャン(白毛馬として初めて重賞を制覇した馬。この馬の父親がクロフネ)

 <絶望の中の歓喜>……東日本大震災で沈みがちだった日本人に飛び込んできたビックニュース。前の年の皐月賞・有馬記念を制したヴィクトワールピサが世界最高の賞金レースであるドバイワールドカップを制したというもの。このレース日本からもダート自慢が何頭も挑戦したのだが、トゥザヴィクトリーの2着が最高で、中にはホクトベガの悲劇というのまで起こってしまっていた。このレースをヴィクトワールピサが制したことは後のなでしこジャパンの世界一と合わせて、絶望の中の歓喜となった。二着も日本のトランセンドが入るという日本場1・2フィニッシュ。落ち込む日本に光が差し込んだ瞬間でもあった。

 <カラ馬が一転してG1馬に>……ある年の札幌での出来事。その馬ギャロップダイナはスタート直後に騎手を振り落としてしまい、そのまま快走。先頭入線をするがこの時はたまにある単なる笑い事の1つでしかなかった。しかしこの馬が名門の一員だったことから、運よく天皇賞秋に出陣。しかし関係者はこの馬には全く期待をしておらず、むしろ京都開催の期待されていた方の応援に行っていた。しかも当時は最強だった「皇帝」シンボリルドルフの人気一本かぶり。この状況でとんでもないおお仕事をやってのける。短距離界の実力馬ニホンピロウィナーやウィンザーノットなどの有力馬と一緒にシンボリルドルフまでも一気に差しきってしまう。ゴール前強襲という形で皇帝を負かしてしまった。その後マイル路線に入り、安田記念も制覇。実力がフロッグではないことを証明したのだが。何故か牧場関係者は海外へこの馬を出してしまう。海外では思ったレースが出来ずに帰国。終わったかとされていたのだが、引退レースとなった有馬記念ではこの年のダービー馬の2着に入り、またも周辺を驚かした。

 <戯れにも見えた、死闘にも見えた>……オールドファンが聞けばだれもが納得するトウショウボーイ・テンポイント・グリーングラスの3強の時代のこと。早くから注目されていたトウショウボーイとテンポイントが最初に激突したのは東京で行われた皐月賞。調整に失敗したテンポイント陣営に対して、トウショウボーイ陣営は調節を間に合わせ優勝を勝ち取る。これで二頭のライバル対決が幕を開けるのだが、続くダービーはクライムカイザーの前にトウショウボーイが弱点をつかれ、両馬とも栄冠をつかむことができず。そして菊花賞。ここで出てきたのがグリーングラス。グリーングラスもデビュー戦でトウショウボーイと戦ったことがあるのだが、その時はその他の一頭的扱いだった。しかし菊花賞では距離が長すぎたトウショウボーイとテンポイントを抑えてグリーングラスが勝利。この戦いにおいて3強時代が幕を開ける事になる。とはいえその戦いはほとんどがトウショウボーイとテンポイントが中心でグリーングラスは添え物的要素だった。適正距離に戻ったトウショウボーイは天皇賞も取ったテンポイントでさえも完封してしまうほどの強さを見せつける。で、迎えたその年の有馬記念。引退を決めていたトウショウボーイに一泡を吹かせるべくテンポイントはマーク作戦をとる。この作戦が大当たりをし、テンポイント陣営は直線抜けだして快勝。グリーングラスの追い込みを抑えきったトウショウボーイが2着。これで時代は新しい方向に行くかと思われた。
 しかし時代は悲劇を呼び寄せてしまう。テンポイントが次のレースに選んだのは日経新春杯。このレースは斤量66,5キロという普通では考えられない(今で言うと斤量58キロを超えると重いと言われるぐらい)斤量を背負うことになる。海外遠征も睨んでいたということもあり、本来だったら出るべきレースではなかったのだが、ファンの要望に答える形で出ることにした。しかしこのレースの最中にテンポイントは骨折。競走馬生命どころか、長い戦いの末に命を落としてしまうことになる。このためファンからは悲劇の馬と言われること(実際は馬主のエゴだが)が多く、実際彼の弟も障害競走で一時代を作る馬になるもレース中に骨折して命を落としてしまう。さらに生まれの関係もあり悲劇的に捉えることもあるのだが、一番の問題もっと別なところにある。現実この後ハンデキャップに関しての味方が大きく変わったのも事実だし、今では超有力馬はちゃんとした休養期間を取らせるというのも定番になっている。
 残ったグリーングラスは3強の名に恥じないぐらいの活躍を見せるが、低迷期間が長かった。この年の天皇賞を制して、宝塚記念も2着と健在っぷりをアピールするのだが、脚部不安から出るレースが極端に少なくなってしまう。しかし引退レースとなる翌年の有馬記念では騎手乗り替わりにもかかわらず快勝。健在っぷりをアピールしたまま引退をした。引退後トウショウボーイからは三冠馬ミスターシービーをはじめとする多数の活躍馬が、グリーングラスからもエリザベス女王杯を制したリワードウイングや個性派のトウショウファルコを排出している。それだけにテンポイントの一件はかなり残念に思えてしまう。タイトルはCMのフレーズから。
 <関連>シービークイン(ミスターシービーの母親。父のデビュー戦に一緒に出走)

 <ヒールか、ヒーローか、悪魔か、奇跡か>……ライスシャワー。馬産地では評判の馬だったのだが、春のクラシックシーズンでは鍛えて強くなるを実践して本当に強くなったミホノブルボンがいたために、その後塵を浴び続けることになる。しかし実力は着実についていて、ダービーでははなされながらも2着を確保していた。迎えた秋。セントライト記念2着の後の菊花賞で、ミホノブルボンを破っての勝利。この勝利、裏を返せばブルボンが敗れる要因(逃げた馬とのガチンコ勝負・距離適性など)はいくつかあったのだが、この一件でダークなイメージが付いてしまう。
 そして迎えた天皇賞春。ここには当時の現役最強ステイヤーであるメジロマックイーンがいた。しかも天皇賞春は2連覇中。だれがどう考えても3連覇は確定だと思われていたのだが、ライスシャワーは他の陣営から見ると馬をいじめていると言われるほどの厳しい調教を科し本番に望む。グランプリホースメジロパーマーとメジロマックイーンを直線で交わし1着でゴール。2つの大記録を潰したことから完全に悪役扱いになってしまったが、タイム的に見るならば歴代最強クラスのステイヤーと見られてもおかしくはなかった。しかしこの勝利以降長いスランプに陥ってしまう。数多くのレースに出るものの、2着はあれど勝つことができなくなってしまった上に時代はナリタブライアンの時代になり、脇役の一頭になってしまっていた。そして迎えた2年後の天皇賞春。ここに来るはずのナリタブライアンが交渉で回避してしまったことにより、混戦模様になったのだが、このレースを直線先頭の逃げ切りをはかる。二頭が猛追するものの、ゴール前わずか10センサに抑えての勝利。2年ぶりの勝利が天皇賞2勝目という輝かしいものになった。
 しかしこの次の宝塚記念で悲劇がおこってしまう。勝ったG1の開催場所が京都だったこと、阪神大震災の影響で阪神競馬場が使えずに京都競馬場で置こなれること、ファン投票1位という立場から出走を陣営は決意する。しかしレースの段階から様子がおかしく、レース中に骨折。その場で安楽死処分が行われてしまう。その後も扱いも含めて今でもいろいろな論議が起こってくる出来事のひとつ。表題は彼を取り上げたCMから。

 <サンエイサンキュー酷使事件>……一人のオーナーの大暴走が競馬会を大きく巻き込むことになった大事件を引き起こす。きっかけになったのはサンエイサンキューのオーナーの資質の問題。謝金問題からとも、オーナーブリーダーからの対抗心とも言われるほどに組まれたローテションが普通では考えられないほどの厳しさになったのと、彼女自身がかなりの競争能力(重賞3勝)があったことから、オーナーの目がそれによって曇ってしまったとも言われている。危険ん兆候は秋競馬になってからはっきりと現れ、当時の主戦騎手がはっきりとモノを言うほど悪化をしてしまっていた。さらにそのことがきっかけであるSポーツ新聞との記者のとの問題の勃発。これがきっかけでそのスポーツ新聞社を批判した同じ会社の社員のうち何人かが退職をしてしまってい、さらに他の会社から体質はどうなっているんだという問題提起もされている。(一番の問題は問題を作った記者が居残ったということか)
 しかし最大の問題はやはりオーナーの資質的問題。エリザベス女王杯を駆け抜けた彼女は本来休ませる予定だったのだが、このオーナーはあり巻き件の出走を指示。最早見ている方が、無事でいてくれという状況になってしまっていた。しかし運命は彼女にむごたらしい結末をもたらす。このレースで馬として致命的な怪我を追ってしまった彼女はそのまま引退。普通なら安楽死も可能性もあったのだが、オーナーが長生きさせるために手術をうけることに。一命は取り留めたが、さらに致命的な炎症を負ってしまい、最終的には心臓麻痺で亡くなってしまう。このことがたたったわけではないが、その後彼の持つ馬は活躍ができずに終わってしまっている。

 <ナカノコール>……人生のどん底を救った一頭の馬(アイネスフウジン)と騎手の物語。体調管理の問題や、交通事故の関係で信頼を失っていた騎手がある馬と出会う。この馬は素質を持っていて無理をさせずに3戦目で初勝利を上げると、その年の超ハイペースの朝日杯を制して一躍スターダムにのし上がる。開けた翌年のレースはライバルの存在もあって皐月賞までの2戦は勝てなかったもののダービーでは自分のペースに持ち込んでダービーレコードを更新しての逃げ切り。この時スタンドから騎手の名前が大声で叫ばれた。競馬人気が頂点になっていた頃に起きた出来事。

 <脅威の8戦8勝馬>……当時の規定に泣かされたがゆえに、伝説になった馬マルゼンスキー。母親が彼がお腹にいるときに来日した故に、国内クラシックレースに参加できないいわゆる持ち込み馬だった。(しかも直前に出来た規制のせいで)その潜在能力が世代一どころか、後に「セクレタリアト(アメリカ三冠馬。ベルモンドステークスは圧倒の31馬身差を付けて勝った。しかも芝・ダート問わず)と唯一対抗できたかもしれない」と言われるほど。脚に爆弾を持っていて、出せるレースが限られたというのもあったのだが、朝日杯を圧勝。8戦で相手に付けた差は合計61馬身。これだけの能力があればダービー出走すれば勝てたはずで主戦騎手は「大外枠でもいい、賞金もいらないから走らせてくれ」といって嘆いた。それでも彼は走り続け夏のレースでは後の菊花賞馬に7馬身の差をつけて圧勝(しかもミスして、その後再加速した上で直線だけで)。その後はトウショウボーイとの対決の話もあったが、結局できず。有馬危険を目指しての釣行中に屈腱を発症して引退。
 ここまでくれば悲劇の馬なのだが、それ以上に悲劇を食らった馬がいる。それはこの年の皐月賞馬とダービー馬。ダービー馬は後の菊花賞馬と比べられてさらにそこからマルゼンスキーと比べられて繁殖牝馬を集めることができず、やむなく韓国に輸出されている。さらに悲惨だったのは皐月賞馬。種牡馬として活躍ができず引退。その後は使役馬としてこき使われることになり日射病という最後を遂げている。それ故に世代全体をさして悲劇の世代と呼ぶことも
 (関連)マチカネイワシミズ(ダビスタシリーズで有名になった無料種付け馬。この皐月賞馬の弟としての触れ込みもあった。が、95年の廃用後は行方不明に)

 <**→快勝のジャパンカップ>……東京競馬場を騒がせた一大発情事件。この馬ピルサドスキーは馬っ気(つまりは**が立ってしまう)をやってしまっていた、しかもだれもが見るパドックの真っ最中に。これにより馬券を買う人間が回避する人が続出。しかしレースはそのピルサドスキーがエアグルーヴを並ぶ間のなく交わして勝ってしまう快勝。だれもが完全な競馬をしていたエアグルーヴを差しきってしまったことに、世界の最高級の強さを思い知らされる結果になってしまった。さすがはブリーダーズカップターフを制し2年連続で凱旋門賞2着というヨーロッパ随一の実力者。
 (関連)ピウスツキ(実際の名前はこう呼ばれるはずだったのだが、JRAの手違いでピルサドスキーに)

 <ダービー馬はダービー馬から>……ダービー馬はダービー馬の父親から生まれるという格言があるのだが、それは牡馬の場合だと思われていた。しかし2007年のダービーは全てにおいて規格外のダービーだった。昨年の2歳女王ウオッカが11年ぶりの牝馬によるダービー参戦。しかも前走は桜花賞をライバルであるダイワスカーレットに敗れての参戦だった。一見無謀にも思えるこの挑戦。しかしこのレース他の馬が伸び悩む中、たった1頭抜群の出ごたえで先頭に立ちそのまま勝ってしまう。64年ぶりの牝馬によるダービー制覇は、彼女を史上最強の名牝へと押し上げる。取った3歳以降のG1タイトルが全て東京競馬場のレースなのはしょうもないが、そのG1は7勝。そのいずれの勝負も名勝負と言っていいほどで、中でもライバルのダイワスカーレットとの天皇賞(秋)のわずか2センチの差は名勝負数え歌に入れてもいいほどのもの。牝馬として数々の記録を打ち立てた後、引退した彼女は現在アイルランドで繁殖生活を送っている。

 <その差わずかに1センチ>……スプリンター界に燦然と輝く女王(フラワーパーク)と、それに挑戦するものとの名勝負(エイシンワシントン)。この年ナリタブライアンの挑戦で話題になった高松宮記念を制したフラワーパーク。それをすぐ後ろに従えて必死に逃げるエイシンワシントン。この年のスプリンターズステークスは最初から最後までこの二頭のための競馬だった。直線でも追うフラワーパーク、逃げるエイシンワシントンの戦いは続き。ほとんど同時にゴールイン。12分に渡る写真判定の結果、わずか1センチの差でフラワーパークがきっちり差しきっての春夏短距離G1制覇だった。

 <4歳4強とは何だったのか>……2004年の天皇賞春。この年のレースは4歳4強と言われる4頭話題の中心だった。二冠馬ネオユニバース・リンカーン・ゼンノロブロイ・ザッツザプレンティの4頭のうちどの馬がこの伝統のレースを制するということが確実視されていた。しかしレースはとんでもない形で推移されていくことになる。先頭を行く馬はダート界の実力者ではあるが芝レースでは全く無名と言ってもいいイングランディーレで年上の5歳。この馬が気持ちよく逃げてしまい、4歳4強は互いを牽制したまま動こうともしない。これがこのレースを決めてしまった。大逃げと言われるぐらいの逃げをうっているのに、4コーナーを曲がった時には決定的な差がついていた。終わってみれば7馬身の大差をつけての激勝劇だった。同じようなことが他のレースでもあり、これが競馬マスコミを信じるに至らせない理由の一つになっている。

 <史上最強逃げ馬の栄光と終焉>……サイレンススズカという馬がいる。3歳時にはサニーブライアンなどの影に隠れて目立たない脇役の馬の1頭だった。ダービーまでは会長だったもののそのダービーではサニーブライアンの後塵を拝し、その3歳で天皇賞秋に挑戦するなどの気勢を見せるものの、2着1回が最高だった。しかし香港遠征から帰ってきて覚醒。オープン特別を制すると、そのまま中山記念・小倉大賞典・金鯱賞と制し一躍宝塚記念の主役に躍り出る。しかもこの時に取った戦術は逃げは逃げでも大逃げを得意とするやり方で、スピードの違いから逃げ切ってしまうという今まではあまり考えられないスタイルだった。宝塚記念は居並ぶ英傑を相手に逃げ切り、G1ホースの仲間入り。
 休養後の秋競馬でのそのパフォーマンスは健在。復帰戦の毎日王冠では後の凱旋門賞2着馬のエルコンドルパサーとダブルグランプリホースのグラスワンダーを相手にして逃げ切り。これで天皇賞秋も楽勝かと思われたのだが、この馬に悲劇が振りかかる。いつもの様に楽勝のパターンで来ていたのだが3コーナーを回ったところで失速。競走馬として致命的な粉砕骨折をしてしまった。この馬特有のスピードが原因なのか、東京競馬場のような特殊な形が原因なのかは分からないが、この瞬間にこの馬の命運も決まってしまった。色々とこの馬に関しては言われているものの、こればっかしは競馬に対するエゴイズムが運びってしまうような気がするのだが。

 <3200Mを逃げきるというのはこういうことだ>……昔の天皇賞は春も秋も3200Mで行われていた。そんな中に出てきた馬プリテイキャスト(表記の規制の関係上で当時はィはが使えなかった)。この馬を含む11頭が出てきたレースで、一番人気はこの前の年に行われたダービー馬のカツラノハイセイコ、他にもカネミノブ・ホウヨウボーイ・シービークロスなどの豪華メンバーが参戦をしていた。この年の長距離の重賞を勝っていたプリテイキャストは前走の惨敗もあり8番人気だった。レースはプリテイキャストがレースを先導する形に。しかし先導するというよりも馬の気分で暴走気味になって大逃げという形になり、ペースを落とした後続を引き離してのレース展開になる。バテるだろうと思われていたのだが、大逃げをしていても丈夫なスタミナがあったことを忘れていたのか緒戦に入っても後続はまだカーブの途中だった。最後の200メートルこそバテてしまい脚が止まりかけたがそれでも後続に7馬身差を付けての圧勝。彼女自身もこの戦いが評価されて最優秀5歳以上(当時は生まれた年を1歳としたので、今では4歳以上となる)牝馬のタイトルを取った。

 <私の夢はバンブー(メモリー)です>……関西テレビに全国区レベルの有名競馬アナウンサーがいた。この人は有名なフレーズを数多く持っていて、タイトルもこのセリフの1つ。名セリフの1つだが競馬関係者にとっては悪夢意外なんでもなかった。この人の私の夢はなぜか外れる傾向が強く、競馬関係者から私の馬の名は言わないでくれと言われるほどだった。ちなみにこの時予想していたバンブーメモリーはマイラーだったためではないにせよ最下位で終わっている。
 しかしこれ以上の死神が発生してしまう。それは元某モデル。この人が予想した競馬のレースが事どとくはずれネタにされることもある。しかも予想しないでくれといったそばからの予想で、災難をふりかけてしまう。ある騎手なんかはこのせいで大怪我を負ってしまったことも。しかもこのあとに書くこと書くことが大災難を呼ぶきっかけになると言われだして、大きな事件があった時にはまっさきにネタ提供人になってしまっている。

 <英雄は東北の地からやってきた>……長い間中央のG1にダートのレースがなかった。そのすべてが地方競馬の大レースが代用していたのだが、JRAも重い腰を上げてダート路線の頂点としてフェブラリーステークスをG1に昇格した。これにより地方馬もこのG1に参戦できるようになったのだが、中央の壁が厚くなかなか優勝どころか出走できなかった。しかし1999年一頭の馬がその状況を変える。メイセイオペラ。ライバルの馬が地方のレースに参戦していて、たまたまこっちのレースのメンバーが手薄だったことからの出撃だった。既に勝負付けをしていた相手故に勝算があったのだが、それでも周辺からは無謀だと思われていた。しかしレースそのものは危なげないレース運びで勝利。地方在籍馬唯一のG1タイトルをもたらした。(地方から中央にやってきてG1を獲得する例はあったが、在籍のままというのは初めて)タイトルはCMのフレーズから。

 <他の馬が止まって見えた驚異的な追い込み>……ブロードアピールが根岸ステークスで見せた驚異的な追い込み。芝のレースではそこそこ活躍はできたものの勝利には恵まれず、遅くデビューしたことの馬にとっても限界説が浮上してきていた。しかしダート適性があったにもかかわらず陣営はそれを軽視していたため、なかなか檜舞台に出れなかった。そんな中で行われた根岸ステークス。一番人気に押されたものの年齢的にいえば中年に近い年齢でしかも牝馬。しかもレースは出遅れてしまい、直線を回った時にはだれもがダメかと思われた。しかしここから驚異的な追い上げを見せる。直線に入った段階で7馬身あった差が残り200メートルではちょっとしかつまっていなかったのだが、ここから猛烈に追い込みゴール手前で交わすと一気に2着と1と4分の1馬身引き離しての快勝を見せる。これがきっかけにしてダート短距離路線に入り、引退レースとなった海外遠征以外では3着以内をキープ。さらに8歳で重賞を制するなど、一流のダートスプリンターとして活躍してみせた。父親の代表産駒としてウィキペディアの父親のページにも載っている

 <ライバルを蹴落とした、しかし……>……イギリスの競馬から。有力馬が出生したエクリプスステークスで偶然7並びの日に開催された。一番人気はこの年のダービーを制したオーソライスド、2番人気はジョージワシントン(イギリス・アイルランドの2000ギニー、さらにKJを制した馬)という古馬である意味ダービー馬にとっては古馬でも通じるのかという試金石な戦いであった。レースはそのジョージワシントンを競り落としたオーソライスドだったが、1頭だけ全く違うレースをしていた馬の存在に気がついていなかった。広いサンダウン競馬場の直線に入った時から1頭レースを放棄したように大外を回った馬、ノットナウゲイトがオーソライスドの前を走っていたのであった。その存在にオーソライスドの騎手デットーリは気付かず、終わってみれば1と2分の1馬身離されていた。日本の競馬でもこの手の奇襲は見られることが多いのだが、ここまで見事にズッポリは待った礼というのも珍しい。
 <関連>シンザンの有馬記念(騎手の作戦にはめられて出るところなしだったのだが、ある馬の騎手の気遣いで大外が開いてそこに飛び込んでも逆転勝利)

 <超がつくほどの気弱なボーイと稀代の名牝の一騎討ち>……1975年のクラシックは一人の騎手のお手馬によって大きく盛り上がっていた。カブラヤオーテスコガビー。後にこの二頭で4つのクラシックを制することになるのだが、この二頭が一度だけ激突したことがある。東京4歳ステークスがそのレースで、オーナーとの関係からこの馬に乗れなくなるのではと思って騎手が選んだのがテスコガビー。カブラヤオーはこの騎手と同じ厩舎所属だったこともありカブラヤオーの騎手には若手の騎手が乗ることになった。レースは直線で二頭の競り合いになるがカブラヤオーが最後の最期で意地を見せて何とか勝利、後のクラシック馬同士のドリームレースは幕を閉じたのだが、ここからが凄まじいことになる。カブラヤオーはもともと気弱だった(80年代後半までバラされていなかった)こともあり逃げることしかできずに、直線大場手にバテて何とか滑りこむような勝ち方でヒヤヒヤさせたのだが、それ以上に他の馬が負えずに潰れていくという展開もあった。一方のテスコガビーが騎手が基本的な能力が違いすぎて基本逃げてしまうというように、クラシックレースでは相手全くこないまま勝利してしまうという展開だった。対照的なこの二頭によって1975年の春のクラシックは推移していくことになる。とくにテスコガビーはそれまでのスタミナ重視から、スピード重視に変えた馬として今も伝説となっている。それ故に心臓麻痺による早世が悔やまれる。一方のカブラヤオーは故障明けの後に4戦走った後に屈腱炎を発症して引退。産駒からはミヤマポピー、グランパズドリームなどが出ている。
 <関連>テンよし、中よし、終いよし、ついでにグラマー(騎手と上で紹介したアナウンサーがテスコガビーを称して)

 <元祖アイドルホース>……その馬ハイセイコーは大井の連勝記録を引っさげて中央にやってきた。中央にやってきた後にいきなりクラシックにとって重要なレースである弥生賞に挑戦。そのレースでも難なく勝ってしまう。スプリングステークスも勝ち皐月賞へ。ここでもレースを解消すると3冠間違いなしと言われる程になるのだが、次の伝説のNHK杯あたりからおかしくなってくる。NHK杯は負け寸前からの驚異的な追い込みを見せて快勝。しかしダービーは一番人気になりながらも後のステイヤータケホープの前に涙を飲むことになる。本来だったら短中距離馬タイプのハイセイコーにとって2400という距離は過酷すぎたのだが、短距離・マイル路線がなかった(もっといえば中距離路線も今ほど整っていなかった)この時はかなりの苦労を歩むことになる。京都新聞杯2着、菊花賞はまたタケホープの前に2着。有馬記念は3着となかなか結果が出てこない。ようやく勝利を掴んだのも翌年の宝塚記念だった。その後はまた惜しいレースが続く。さらに災難も手伝って結果的に引退レースの有馬記念でも2着に終わるのだが、勝った馬が圧勝状態にもかかわらず、なぜかタケホープの競り合いの方で注目を受けることに。歴史的名馬の1頭であるのには間違いないのだが。もっとレース体系が今のようだったとすればG1級の競争はもっととれていたかもしれない。
 <関連>カツラノハイセイコ(息子。親が取れなかったダービーを取る)、ハクタイセイ(皐月賞馬)、サンドピアリス(波乱のエリザベス女王杯を制す)

 <驚異的大噴射と逆噴射>……ツインターボ。その一見自爆とも思える大逃げは彼が出てくればそれだけでレースは盛り上がるというものだった。自爆が多いと言いながら展開がうまくハマると2着以下に大差をつけて勝ってしまうわけで、福島記念ではアイルトンシンボリをオールカマーでは居並ぶ実力馬(ライスシャワーもいた)を相手に大差の逃げ切りに成功する。天皇賞ではこの2戦が評価されて3番人気に立ったが。その後中央では勝てずに地方へ。しかしここでも1勝しかできずに引退。その人気もあり種牡馬となったが5頭種付けをしただけで早世してしまう。この逃げっぷりは「玉砕型」と称され、後の機関紙の人気投票では2位に入るほどの人気を誇っていた。

 <元祖ブロンズコレクター>……ナイスネイチャ。重賞4賞をあげた馬ながら、そのネタっぷりからブロンズコレクターと呼ばれた。どういうレースでも勝ち切れずに3着を連続して確保する。しかも有馬記念を3年連続3位というある意味偉業を達成する。その間に重賞は勝者のどうしても出てくれば掲示板という方がイメージと占めめだったのも事実だが、この馬のものすごいところはその回数によって稼いだ賞金。7勝しかしていないのに6億2000円も稼いだのである。ある意味馬主孝行な馬の筆頭株なのだが、後継者が出ないまま種牡馬として引退したのが悔やまれる。
 <関連>ステイゴールド(こっちはシルバーコレクターだが、引退エースでG1制覇。その後種牡馬としても大成功)、ロイスアンドロイス(初代シルバーコレクターかつ2代目ブロンズコレクター。走ったレースの半分以上が2着と3着で重賞未勝利)

 <まさかこの馬が日本に来てくれるとは>……競馬界に輝く最強クラスの一党がいる。ダンシングブレーヴ。この馬は当時最強クラスのメンバーが集った凱旋門賞で居並ぶ世界的名馬(この中の1頭にシリウスシンボリが、さらに後に日本の富士ステークスでワープと言われる脚を見せるトリプティクがいる)を相手に、後方から一気に追い抜いてしまうという芸当で勝利をしてしまい、最強馬と呼ばれるほどの馬だった。しかし種牡馬生活に入り、ここ馬にとっては富士の病と言われるマリー病を発症。さらに初年度産駒が思った以上に走らなかったことから、スタッド側がJRAに打診。これがきっかけで日本にダンシングブレーブが来ることになった。しかしこの行動は打った側にとっては痛恨のミスになる。ヨーロッパに残してきた産駒からコマンダーインチーフ・ホワイマズル(後に日本で種牡馬になり二頭ともその産駒からG1馬を出す)というっことから、速すぎたと酷評された。日本でも最初は振るわなかったもののエリモシック・テイエムオーシャン・キョウエイマーチという牝馬の活躍馬を出し、さらにはアメリカの伝説的名牝であるグッバイヘイローとの子供から、キングヘイロー(高松宮記念・産駒カワカミプリンセス・ローレルゲレイロ)を生み出す。しかし病気のと戦いに苦しみ、最後は立ったままの大往生でこの世を去ってしまった。

 <まさかこの馬が日本に来てくれるとは・パート2>……競馬界を唖然とさせた神の馬と呼ばれる馬がいる。ラムタラと呼ばれたその馬は最初のレースを勝つと次のレースはいきなりイギリスのダービーをチョイス。(関係者にはかなり期待をされたいたのだが、調教師が射殺されてしまったことや、彼自身の病気のせいでこうなっただけ)で、関係者以外は無謀過ぎる朝鮮かと思われたのだが、ラムタラはこのレースを勝ってしまう。3戦目に選んだのはキングジョージ。ダービー以上の無謀とも言えるこのレースで今度は古馬相手にクビ差抜けだして勝利。(この時の競争相手の一等は日本で走ったこともあるペンタイア)更にこの年の凱旋門賞もいきなりやってきて、最後には迫られる後続を引き離しての勝利。ヨーロッパクラシックディスタンス3大レースを無敗でしかも4戦4勝で制した、異例の馬になった。その馬がまさか日本に来てしまう。サンデー旋風の中でそれに対向する静内の競走馬生産グループが導入を決めたものだった。イギリスでも論議を呼んだこの論争は、日本では種牡馬としては大成しなかったという意味もあって、ダンシングフレーヴほど沸き立つものにはならなかった。最も血統的にいえばかなり危ない部類に入るので大成事態は相当難しかったと思われる。結局イギリスに100分の1で買い戻され、ラムタラ自身も種牡馬としての生活は今は行っていないという。
  <関連>ノーザンダンサーの2×4(血統的背景)

その他

 <棚ぼたで金メダル>……スケートのショートトラック決勝での出来事。それまでダントツの最下位を走行していたオーストラリアの選手が、前全員が転倒したのをよそに最終の直線で一気に抜き去って金メダルを得たという事件。伏線としてアメリカの選手に対する韓国の選手の恨みがものすごかったことと、そのアメリカの選手が金メダルの最有力候補だったこと。さらに優勝した彼以外の実力が拮抗していたことがありこういう珍事が生まれてしまった。ただこの時の彼はかなり運に恵まれていたのも事実。彼の走ったレースでは続々と失格が生まれてしまい、決勝まで恵まれた形で上がってこれたのも大きい。

 <フローレンス・ジョイナードーピング疑惑>……陸上選手とは思えないほどのファッションでソウル・オリンピックを駆け抜けたフローレンス・ジョイナーにかけられたドーピング疑惑。彼女の引退後にもさんざん囁かれたのだが、そんなさなかにジョイナーが急死してしまい、有耶無耶のまま真実がわからなくなってしまった疑惑。彼女が出した100M女子の世界記録は2012年現在も破られていない。

 <アームストロング・ドーピング事件>……自転車ロードレース界で前から騒がれていたドーピング疑惑が、スーパースターたちを直撃した事件。代表的な選手アームストロングはガンを手術で克服したスペシャリストで、6回の優勝を誇ったスーパースターだったのだが、ドーピングをしていたことが2001年から告発される。最初はよくある日が身程度だったのだが、告発者が増えることで信憑性を帯び最終的には期間が任命するまでの事件に発展。結果的にこの任命で7回のツール・ド・フランスの優勝がなくなり、永久追放。さらにはスポンサー打ち切りなどの憂き目になっている。
 もっともツール・ド・フランス自体が薬物とは切っても切り離せないという問題を抱えていて、彼以外にも優勝者などが続々とドーピングを告白したり告発されていたりしている。アームストロング以外にも多数の薬物使用者および疑惑者が続出。しかもほぼ毎年のように有力選手が出ていることから、競技自体のあり方が問題視されている。

 <ル・マンにおけるメルセデスの2つの大クラッシュ>……ルマン24時間といえば、自動車レースにとって大きなイベントなのだが、そこに出てきたチームの中でメルセデス・ベンツは大きなクラッシュ事故を2つ起こした。一つ目は1955年。急減速をしたジャガーの車を避けようとして避けた車にメルセデスの車が衝突。エンジンなどの部品が観客席にまで飛びドライバー・スタッフ・観客たち80人以上の死者と多数の負傷者を出した。当時は観客席に安全対策が行われていなかったことから起きた惨劇だった。ただこの時の優勝チームがこの問題行動を起こしたジャガーだっただけに、そのドライバーはさんざん嫌味を言われる格好になったのだが、このドライバーも事故死を経験してしまうことに。これによるメルセデスはルマンから30年も離れることになる。
 2回目は1999年。この前の年に開始2時間で用意したマシーンが全部リタイアという悪夢に見舞われたチームは今度こそとの思いで、新車を投入する。しかしこの新車がよりにもよって欠陥品だった。予選から車が宙を飛び、優勝候補と言われながら周辺に大きな心配を撒き散らしながら本戦へ。しかし悲劇は繰り返された。76週目トヨタのマシンに襲いかかっていたマシンは前方が浮き上がる形でいきなり宙を飛ぶ結果に。回転をしながらコース脇の森に飛び込んだ。(ようつべにその様子が多数残っている)結果的にメルセデスはこの瞬間にルマンから撤退。現在(2013年)に至るまで、ルマンの部隊には戻ってきていない。現在唯一飛ばなかった機体がミュージアムに保管されている。
 <関連>フライングメルセデス・秘密主義が原因を隠してしまう(メルセデスは秘密主義を貫いていて、何かあると直ぐに撤退をして原因を隠してしまう傾向が強い)

 <セナの事故死>……80年代90年代の日本のF1ブームを引っ張ったアイルトン・セナが94年サンマリノGPでレース中に壁に激突。その死亡が皮肉にもそのレース中計の中で流されてしまい、レース後F1中継陣が大粒の涙をながすほどの衝撃を与えた事件。実はこの前に事故が多発していて、有名ドライバーが餌食になっていたり、同じレース内でドライバーが死亡する事故が起きている。さらにこの年は事故が多発していて観客にまで被害が出ている。危険なコースと例外規定で行われているレース故に常にレースそのものの開催が危ぶまれていたのだが、2006年の改正によってサンマリノGPが廃止になるのだが、今度はF1そのものが猫の目のように毎年のように変わるルールのせいで、ファンのF1離れを引き起こすことに。しかしF1におけるドライバー死亡事故はこれ以来起きていない。(スタッフの死亡事故は起きている)2014年の日本グランプリ時にジェール・ビアンキが事故死してしまった。
 <関連>鈴鹿で神を見た(セナの発言)・ヨーロッパグランプリ(その例外規定が実質的にあるようなもの)・拡大するアジア市場・2014年日本グランプリ・1977年日本グランプリ(死亡事故あり)

 <サーフィンの神様>……サーフィンの神様と呼ばれる人物は二人いる。一人は最高の大会を2度制覇し、自分のサーフィンブランドを立ち上げて、さらに映画にも出演したハワイ出身の人。そしてもう一人が彼が生まれる前にはすでに伝説の人になっていてと同じハワイ出身の人。この人が伝説なのはオリンピックの水泳競技で金メダルを3つ、銀メダルを2つ獲得していることから。しかもストックホルム。アントワープ・パリという3つの大会で12年かけて獲得していることから。サーフィンの功績が大きすぎて目立たないのだが、第1次世界大戦周辺を代表するアスリートでもあった。

 前のページに戻ります トップページに戻ります