ここでは真田・伊達編で追加した武将の簡単なプロフィールを紹介したいと思います。基本的にはウィキペディア準拠です。(毛利編で変更のあった武将は毛利編の方に書いています)あと赤字は女性を表しています。
室町以前
熊谷直実
平安から鎌倉時代にかけての武士。銅像が出身地である埼玉県熊谷市に存在する。最初は源氏側に立っていたものの、武士として扱われていなかったために平家にくら替えをする。そこで知行も得ていたのだが石橋山の戦いを期に頼朝陣営に。その後は平家討伐のための軍の中心の一人として、部隊を率いる。一の谷の合戦では本体ではなく義経の別働隊に参加。奇襲攻撃の成功もあったのだが、この闘いで息子ほどの年の平敦盛(当時17歳)を討ち取ったと平家物語では記されている。その後出家を決意したとあるが、戦後の扱いに対して不満を燻らせることになる。流鏑馬の時には的立役を拒否して領地没収。さらには口下手なことが幸いして境界線争いの時には憤慨をして出家してしまう。その後法然に出会い本格的に仏門の道へ。数多くの寺院の建立(開祖)に関わることになった。
源頼朝
日本で最初に幕府飛来と武士の棟梁。しかし時代変化の年代については昔は1192年だったが、色々と研究をしていく過程の中で1185年か1183年かにまで時代が変わってきている。平治の乱で初陣を迎えるがその時にはぐれてしまい捕まってしまう。死刑もあったのだが清盛の母親の言葉もあり、伊豆への流罪になる。この伊豆の生活の間に北条政子と結婚。さらにはこの時に多数の武士が集まり着実に勢力を伸ばしてくる。1180年に挙兵。個々の戦いでは破れ伊豆を脱出して安房へ。ここで着実に力をつけ、さらには富士川の戦いでの平氏の自滅もあり関東平定に成功する。こうなるツオ勢いは止まらずに一気に平氏を追い詰めていくが、自分は鎌倉から動かず、討伐は義経を始めとした部下に任せて政情の安定に務める。かくして平氏は壇ノ浦で海の中に消えてしまった。戦後は鎌倉を拠点に、戦後処理を敢行。弟義経・一族の義仲などを次々と撃破。(これが一問宗家の力を一気にそぎ落とすことになる)、最後は義経をかくまった挙句にその義経を殺してしまった奥州藤原氏を滅ぼしたものの、その後の栄達は長く続かず、落馬が元の怪我が原因でこの世を去ってしまう。
しかし同時に頼朝のは自分の一族の滅亡フラグも立ててしまう。鎌倉幕府成立後に弟・義経を、弟・範頼も謀反の疑いで殺してしまう。こうして一門の後ろ盾を自らの悪手で消してしまった頼朝は今度は娘に裏切られる。想い人を殺されたゆえに、その後の頼朝を拒否。困り果てた頼朝が天皇の后にしようと暗躍をし始めた頃に病死。そののち本人も落馬が元で死亡。三女も半年もたたないうちに死亡し、とどめに息子二人も家臣団の暴走やら北条家の暴走によって殺され結果的に頼朝系の一族はすぐに滅亡してしまう。さらに自慢の家臣団も時がおうことにバラバラになってくるなど、その結束力の構築に関しても疑問符を持たれることに。また肖像画が少なすぎてどれが本物なのかというのも研究社を惑わせる要因になっている。
鬼一法眼
伝説上の人物。室町時代の書かれた義経記に出てくる義経の師匠で、陰陽師。六韜という兵法の大家であり、また文武に優れていた。義経は彼の娘を通じて六韜を盗み学んだとされる。剣術の腕は後の京八流の祖となるほどの腕前。
吉備真備
奈良時代の学者・政治家。その才能は時の唐の皇帝である玄宗が先のばにしさせたとも。22歳の時に遣唐使として唐に渡り数多くの学問を学び数多くの教典などを持ち帰る。帰国は天皇に気に入られ出世の道へ。排除のための反乱も起こされたが、ステップアップ。しかし藤原仲麻呂のお陰で左遷。さらに二回目の唐への渡航となる。(この時に一緒に帰国したのが鑑真)帰国後は大宰少弐として防衛戦の構築に務める。70歳になり帰郷をして、自分を左遷した藤原仲麻呂が起こした乱を鎮圧。70代まで政治の中秋に携わった一流の閣僚だった。
野見宿禰
このメンバー(追加分だけ)の中では一番古い登場人物。相撲(今でいう総合格闘技なのでなんでもあり)の達人で、時の天皇によって行われた天覧試合の時に勝利、その縁で天皇に仕えることになる。それまで天皇や豪族が死ぬと人柱として生贄になる人間がいたのだが、それをはにわに置き換えることで風習を改めたという構成がある。土師氏の祖先とさされる人物。
猿丸太夫
三十六歌仙の一人で、存在はいるのだが出自が不明すぎて、弓削王子や道鏡、さらには柿本人麻呂との同一人物説がある。各地でいろんな伝承が残っている。下野の地では弓の名手でムカデの大軍を相手にしても一歩も引かず、逆に相手の親玉の目を撃ちぬいたという伝説がある。
室町(戦国以前)
念阿弥慈恩
南北朝初期の時代の剣客。父は新田義貞に使え先行があったのだが、彼が幼いうちに殺されてしまう。乳母に匿われる形で異動をし7歳で剣術に出会う。一度は仏門の道に入るものの、父の敵討ちのために還俗。敵討ちを成功させた後には再び仏門にはいり、剣術を教えることに。念流と呼ばれる剣術の創始者とされる。
赤松めし
洞松院。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の娘。不器用とされ父が立てた寺で出家をしていたのだが、弟の願いにより還俗。当時としては異例の30代で赤松家に嫁ぐことになる。その後夫が急死してしまい息子がいなかったことから養子をとってその後見人となるが、お家騒動に巻き込まれ担がれる形で休息に存在感と実力を発揮していく。このお家騒動は結局状況の変化を生み出さなかったが、家を取り仕切っていた武将が死ぬと細川家や他の家臣のサポートもあり20年にわたって赤松家の領地である播磨・備前・美作の領地を治めることになる。後見人の養子を対立から失うということはあったものの、その後も安定をした両国運営を行なっていた。
上杉顕正
関東管領。先代の陣没による後継者不在の状況から当時の8代将軍義政の命で家督をつぐ形に。当時は乱の真っ最中だったが、過信太田道灌の活躍もあり肩身の狭い状況に追い込まれる。おまけに上杉家同士の仲が悪く、それが関東における関東管領の勝ちと上杉家の存在価値、さらには公方の存在価値をもすり減らしていく。おまけに道灌の暗殺により仲たがいがさらに決定的なものになり、これが結果的に伊勢宗瑞こと北条早雲の相模侵攻に大きなアシストになってしまう。その上目が出身地である越後の方に向かっていってしまい、その統治を行おうとするが反発を招く形で失敗。最終的には長森原の闘いに負けて敗死。
足利義満
足利三代将軍。10歳で将軍の座につく。宗教統制をしながら難聴に対しては九州探題を送ることでその勢力を徐々に削いでいった。後に花の御所と呼ばれる場所に政治の中心を移して、本格的に室町幕府を作り上げる。周辺の力をそぎ落とし自分の権力をどんどん強くしていく。その省庁としてデモン捨てれーデョンが大規模かつ派手になっていく。さらには力がなくなった南朝に対して、講話を進め南北朝の統一を果たし、さらには対立していた後円融天皇が死んだことで権力をさらに強化していく。また外交面でもミントの貿易を望んでいたのだが、これは他の貴族から大きな反発を受ける結果になった。しかしその権力の頂点にいる状態のままで突然の急死。一節には危機感を抱いた者による暗殺かもと言われている。結構恨みを買うような行動もしてたようだ。
一休宗純
臨済宗の僧侶で、後小松天皇の落胤とされる説が出自としては有力になっている。6歳で仏門へ。13歳で作った漢文が評判を呼ぶなど、早くから才能はあったと思われる。その後仏門の道を邁進するものの、奇行が多かったが(最もこの奇行は仏教を形骸化、陳腐化するなという一種の現れのようなものらしいのだが)この生き方は後の江戸時代に大きな共感を呼ぶことになり、さらには「一休さん」というアニメにつながっていく。天皇家に気に入られ大徳寺の住職を任せられるなど、僧侶としての実力も確かだったようだ。
今川貞世
駿河今川家の2代目当主で、九州探題の時には九州・中国の各地の守護も兼ねていた。政治的な動きでその地位が剥奪され、さらには引退を余儀なくされるとその恨みからか「難太平記」と呼ばれる義満に対する批判を込めた今川家の歴史についての書物を書いている。
尊氏側につき、幕府の要職を兼任。2代将軍義詮の死によって出家をするも3代将軍義満でも重用される。九州に勢力が残っていた南朝を駆逐するために九州探題として派遣される。同時に九州各地(豊後以外)と備前・備後・安芸の守護職も兼任。大宰府を奪還し、さらに南朝を追い詰めるか、対立していた勢力の首領に対する暗殺工作のせいで支援が一気に止まってしまう。それでもなんとか大内の支援とかで立ち直り、南朝の九州における勢力を無力化することに成功する。同時に倭寇に対しても討伐をし、独自外交を展開するが、突然解任されてしまう。以後は駿河の両国経営に専念するものの、今度は乱の共謀者とされ兵を起こされるものの、土下座外交で隠居と引き換えに回避。その隠居後は難太平記の執筆などに専念した。
佐々木道誉
権威などに対し犯行をし、派手な風潮を好んだとされる婆娑羅大名の1人。京極一門の出身だが、早い段階で尊氏と通じていた。退却中の北条高時一門の退却を阻みすべてを自害させるなど、汚れどころを積極的にこなす。建武の新政でも一応の役職につくが、尊氏側につき離脱。南朝成立後は畿内6カ国の守護になり、幕府の中で大きな力を持つ。その後は崩れた北朝の権威の立て直しや、兄弟同士による内部の混乱などでも中心として立ち回り存在感を増していく。将軍の代が変わり幕府内で対立が起こると、お家騒動を期に一時期は権力を剥奪されそうになるが、義詮に讒言をすることで逆に空いてを失脚させる。その後は息子に家督を譲って引退。
上杉定正
扇谷上杉家当主。自身にも実力派それなりに備わっていたが家宰である太田道灌の活躍により自身が目立っていた。これに猜疑心を抱いた定正は道灌を暗殺。道灌の死の間際に言った「自分がいなければ上杉家は滅びる」という言葉ははからずもこの後にあたってしまうことに。この一件で上杉家の中で争いが発生。道灌の死によってはなれていた家臣団こそ戻らなかったものの、古川公方などの見方をつけることには成功。しかしその振る舞いから徐々に相手が離れていく。重心も倒れていく中北条早雲との同盟で状況を華禅しようとするが在陣中に落馬によって死んでしまう。二人の上杉家の党首が結果的に関東管領・上杉家そのもの権威を落としていく結果になった。
戦国
津田算長
紀伊の人で武将として楠氏の末裔と名乗る。鉄砲に目をつけ自ら種子島に渡り、そのうちの一丁を紀伊に持ち帰る。この一丁を職人に複製させたことから紀伊が鉄砲産地として大きな発展を遂げることになる。息子算正は秀吉の紀州遠征(目的は民衆間の中にあった価値観を全て否定すること→力で完全に封じ込めること・刀狩に兵農分離を含めて弾圧に近い形で紀州を平定するが、それでも不満はくすぶり続けた)の時に抵抗をするが討ち死にしてしまう。
太田牛一
織田家臣。元々は柴田勝家に使えていたものの弓の腕を買われ信長に仕えることになる。側近のひとりとして活躍をして板は本能寺の玄の時には近江にいたために難を逃れる。その後は丹羽長秀を経由して秀吉に仕える。秀吉の朝鮮遠征の際には肥前名護屋で弓大将として在陣している。その後は秀吉の警備も担当した。非常に長生きをした人物で、恐らく信長・秀吉・家康のことを全部知っている人物の1人であると思われる。著作として信長研究には欠かせない「信長公記」を執筆している。
松永長頼
松永久秀の弟だが、出世は彼のほうが早かった。謀略中心の久秀に対して武勇で鳴らした長頼は三好長慶に気に入られ出世コースを順調に歩んでいく。丹波方面に強く、その実力は隣国若狭にまで及んでいたほど。しかし丹波国内での国人勢力との戦闘中に、戦死をしてしまう。以後見よし勢力は丹波国内では衰退をしていき代わりに波多野家が台頭することになる。
名古屋山三郎
槍の名手で、その端正な顔立ち(蒲生氏郷が嫁に取ろうとしていたぐらい。ちなみに男だが)派手な立ち振舞から傾奇者の1人と呼ばれていた人物。妻とされるのは出雲阿国で、ともに歌舞伎の祖先的立場とされている。しかし彼も政宗同様、生まれてきた時代が遅すぎたといえる。それでも秀吉の遠征の中で蒲生軍の一員として参加。どれも一番やりの大功を挙げて2000石の知行を得る。氏郷の死後は蒲生家を飛び出し、京都で僧になろうとするが失敗。妹の嫁ぎ先である森家に使えることになる。関が原の合戦の後に、森家も転封されるのだが、その転封先の城の建設現場で同僚と喧嘩になり抜刀。しかし返り討ちにあい死亡してしまう。この切った相手も喧嘩両成敗という形で、その直後に同僚に着られて絶命。
北条氏綱
北条2代目。早雲の引退により家督を継ぐ。本拠地を小田原に移したり、独自の制作を打ち出したりして徐々に勢力を固めていく。さらには扇谷・山内の両上杉家の混乱に乗じて勢力をどんどん広げていく。とくに扇谷上杉とは直接対決の機会が多く、それらの闘いは優勢に進めるが、扇谷上杉も山内上杉の支援や武田家の支援などで抵抗をしていく。この直後に対北条家包囲網がしかれ、鎌倉を始めとした領地が奪われるものの、相手側の自滅によって盛り返すことに成功。この頃になると周辺が激動の渦中になるにつれ、だんだん状況も変わってくる。今川家が信虎と結んだことによって盟友関係が破綻したり、逆に里見と小弓公方の連合軍を叩き潰したりもしている。結果的に伊豆・相模・武蔵などの支配権が確立されていった。
朝倉孝景
義景の父親。尊敬する曾祖父と同じ名前を名乗った。父親の急死により家督を継ぐ、一門の有力者である朝倉宗滴のサポートもあり、各地へ兵を出す。(しかし本人はあくまで越前に残り代理を総大将として出陣させていた。これが後に姉川の戦いにおいて敗因の一つになってしまう)各地へ兵を出しその威厳を示すことには成功しているが、内部は統率が取れておらずしかも弟との対立もあった。それでも一乗谷を中心とた文化は大きく花を開き、数多くの文化人が尋ねるという結果になった。その後の息子義景同様、平時の時には優秀な政治家に慣れたかもしれないという武将の1人。
尼子国久
経久の次男。尼子氏の中でも精鋭を集めた新宮党を率い、伯耆の国の城を続々と落としていく。甘この最大版との拡大に大きく後見をし、経久から次代の晴久の後見人として認められたのだが、晴久との仲が悪く結果的にこれが尼子の運命をも左右する。晴久の性質である国久の娘が先に死んでしまうとこれを契機に国久も粛清されてしまう。この一連の行動には毛利元就がらんでいると言われていたのだが、最近では晴久の権力拡大欲からくる一門勢力取り込みが起こした行動だという話が有力になっている。しかし晴久死後の尼子家は文字通り坂道を転がるように一気に転落をしていくわけで、そういう意味では晴久が自らトリガーを引いてしまったといったほうがいいと思う。
成田甲斐
最近映画小説などでピックアップされることが多くなった女猛将の1人。もっとも彼女の祖母も71歳の時に北条相手の籠城戦で一歩も引かない闘いを繰り広げいたので素質はあったんだろうけど。秀吉の関東遠征時に三成軍の兵士23000が住民合わせても3000しかいない忍城を襲う。しかも城代である親戚が急死という状況。さらに三成は水攻めを用意していたこともあり大ピンチかと思われたのだが、暴風雨によって失敗。堤防破壊工作により、三成側へ濁流が押し寄せる形となりかなりの数の犠牲が出てしまった。しかしピンチは続く。今度は浅野家が援軍にやってきて直接攻め込んできたのだが、甲斐姫は新しくなった城代の代わりに出陣をして城への侵入を阻止。この時に数多くの大功を挙げる。さらに真田も加わった軍の猛攻を受ける。孤立無援状態の城に対して、維持で対抗。甲斐姫自身も武将をひとり討ち取ったとされる。しかし時はすでに小田原が陥落しており本当の城主である成田氏長が秀吉の命令で説得。結果的に城は開城する形になり、蒲生家に預けられる形になったと言われている。
その蒲生家にい最中にも大事件が発生する。大崎一揆に伊達家が加わるのではという情報が入り、成田氏長も家臣団を引き連れ出陣するのだが、その間に蒲生家から派遣されてきた武将がなりたけ譜代の家臣当時長野妻を殺害という反乱を起こす。甲斐姫にも手が伸びるが、逆に武勇で圧倒20倍近い差をはねのけ、武将の1人を打ち取り氏長の軍、更には蒲生家の軍と合流。攻勢を仕掛け乱を鎮圧した。この武勇が秀吉の耳に入側室の一人として大阪に招かれることになったが、この辺りから資料のほうが合間になってくる。隠密になったのか、奈阿姫と一緒に付き従ったのか。最近になって甲斐姫が詠んだとされる和歌が発見されているので、秀吉の死の前後辺りまでは、秀吉の周辺にいたのには間違いがないのだが。
井伊直虎
徳川四天王の中の井伊直政の義母。1544年に今川家家臣の讒言によって祖父が殺され婚約者だった男も逃走。このせいで婚期を逃すことになり一生独身という立場に追い込まれる。桶狭間で父が死に、曾祖父も陣没。とうとう男での後継者がいなくなったことから井伊直虎として井伊家の家督を継ぐことになる。ただこの時もいいけを取り巻く環境は悪く、居城まで奪われる状態になったは、ここで家康の台頭により周辺の環境が劇的に変わる。今川家関係の武将の排除を家康がしてくれると同時に、井伊家の所領が戻ってきた。信玄の侵攻により一時期はまた所領を奪われるものの、信玄の死による撤退で取り戻す。はとこで養子にした直政を世に出したのを見届けてから、本能寺の変の年に息を引き取った。
今川寿桂尼
今川家の影の実力者。夫氏親から孫の氏真まで4代にわたってその存在感が際立っていた。貴族の中御門家の出身で、同じく名門守護の今川家に嫁ぐ。病に倒れることが多かった氏親をサポートして今川家の分国法である今川仮名目録の制定にも大きく関わったとされる。その氏親が死に氏輝が跡を継ぐとその後見人に。しかしその氏輝も早死。寿桂尼は仏門のみにち入っていた義元を還俗させ、今川家の跡継ぎにする。その義元が桶狭間で討ち死にをすると、今度は氏真の後見人になる。彼女は死に際して今川家の守護たらんとし鬼門の方角にある寺に埋葬される。彼女が健在だった1568年頃まではまだ何とかなっていたのだが、その翌年に戦国大名家としての今川家は武田家によって崩壊してしまう。
杉谷喜住坊
戦国時代の鉄砲の盟主だが、雑賀衆とも猟師とも言われていて、その出自は不明。信長を狙撃したのだが、信長はかすり傷程度ですんだ。徹底した犯人探しが行われ捕まってしまい、鋸引きの系によって処刑されてしまう。信長を狙撃した理由は幾つもあって、どれが本当なのかいまいちわからない。
立花ギン千代
立花道雪の娘で、立花宗茂の嫁。道雪には息子がいなかったので、大友家の許可をもらって城督になる。その後に高橋家から後の宗茂を養子にもらい結婚。夫宗茂が着実に出世の道を歩んいたのだが、実質的な別居状態になってしまう。関ヶ原の戦いの時に所領を責められた時には、ギン千代の武勇を恐れた加藤清正がわざわざ住んでいる場所の村を迂回して柳川に入ったという話が残っている。宗茂が加藤清正に預けられる形になり、それと同時に熊本移住。清正たちからは丁寧に扱われたのだが、移住したあたりで病を発症。この病が元で亡くなってしまう。その後立花家は再興するのだが、宗茂とギン千代の間には子供がおらず、さらにそれ以降宗茂には子供ができなかったことから、道雪直系の血はこの段階で絶えるしまうことになる。
蠣崎信広
若狭武田の一員だったが、傍流だったので本来出会ったら跡継ぎに離れなかったのだが、跡継ぎ要員の一人として本家の方に移るも、その本家に跡継ぎが出てしまいさらに父との仲たがいから孤立。武田家を飛び出し関東へ。さらに東北にはいり陸奥へ。さらに蝦夷地に渡り蠣崎家の首領に気に入られ、後継者として婿養子になる。正式に跡を継いだ後はアイヌ民族の攻撃を受けて陥落寸前に追い込まれるも、軍をまとめあげ逆にアイヌの首領を打ち倒す。これで蝦夷地の支配権を確立させ、明治まで続く大名家の基礎を固めた。
大内義隆
名門大内家の31代目の当主。家督を継ぐと勢力を九州方面に拡大。貿易によって拡大した勢力は、中心の山口の発展をさらに強固なものにしていった。祖父の代から大内文化として花開いていた。キリスト教の拡大にも貢献をしている。さらに安芸方面にも本格的に進出。毛利元就を守るために尼子家を撃退して勢力をさらに広げる。しかし出雲遠征で長男を失うと拡大路線をやめ文治政治に。これが武断派の不満を招くことになる。溝はだんだん開いていき、最終的に陶晴賢に反乱(大寧寺の変)を起こされ、追い詰められて自害。
彼の死後幕府は大きく揺らめくことになる。日明貿易はこれで終了、山口にいた貴族たちも同時に殺されてしまい文化的に言えば大きな主対を招くこといなってしまった。その後の大内家の運命は、毛利元就の手によってかなり悲惨な状況に追い込まれていく。すえはる方はこの後いいように翻弄され、しかも厳島に誘われての敗死。さらに跡を継いだ養子には求心力がなく、そもまま毛利に蹂躙されるがままの状態になり自害で乱から6年で滅亡。その後継者は大友にいいように扱われた上に自滅という状況を作り出す。結果的に大内家は義隆を殺してしまったがゆえにその寿命を一気になくしてしまった。
許儀後
中国出身の医者。倭寇に捕らえられた後に島津義久の目に止まりそのまま島津家に仕えることになる。そのためその後継者で弟の義弘に取っては医学的な師にあたる。秀吉にも謁見を果たしているが、秀吉の朝鮮遠征の時にはそれに反発をして、国内事情を記した所を関係者に渡している。
宇喜多能家
宇喜多直家の祖父。文武両道に優れ、浦上氏も彼を信頼していた。家督を巡る争い、松田氏との争い、赤松氏との争いに顔を出しいずれの合戦でも活躍をして浦上家を窮地から救う。最終的に浦上家は赤松家を上回ることができたのだが、内部はかなりガタガタだった。一連の闘いの後主君の戦死の折に引退。しかし同じ浦上家臣の島村盛実が突如押し寄せてきてそのまま討ち死に。これにより宇喜田家の浦上家の中での地位が大きく低下することになるのだが、それを奪還したのが皮肉にも島村盛実を謀略でおい落とした孫の直家だった。
馬場職家
元々は能家をたたき落とした一員ではないかと言われていた浮田家に使えていて武勇で鳴らしていたのだが、宇喜多家との戦いで指を負傷してしまう。その闘いで浮田家が滅びると直家に誘われる形で宇喜多家に。以後宇喜田家の武の中心のひとりとして活躍。鉄砲で負傷をしてしまうが、その後の闘いでは毛利相手に立派に殿を務めて称賛を浴びる。秀吉の九州征伐に同行するが、負傷をしてしまい、年齢も高かったことからそのまま引退。宇喜田家の没落を遠くから見ることになってしまった。
金津義旧
妻が後の謙信の乳母になることから、その謙信の信頼が厚かった。謙信は父の晩年になってからの子供で、それゆえに家臣団からも父親の為景からも、実の子かどうかを疑われたゆえに、暗い幼少期を送っていたのだが、この夫妻の前だけでは本来の子供らしさを見せていたという。それ故謙信が成人してもその信頼は揺らぎなく、謙信が出陣するときには春日山城の居留守役を任されるほどだった。
江戸
斎藤福
春日局。ある意味戦国時代の勝者の1人。斎藤利三の娘だったが本能寺の変の時には父親から離れており、難を逃れる。その時の養育者によっていろんなことを叩きこまれる。小早川秀秋の家臣で、関ヶ原の戦いの勝利の影の立役者である稲葉正成の妻になるが、福が将軍家へ乳母として仕えることになるときに、形上とはいえ離婚する。(この一件がどうかは分からないが、息子も小姓として仕えることになり、後に小田原藩の城主になる)江姫の死後のあとは大奥を仕切るようになり、その権力は老中以上だと言わしめられるほどに。その権力はものすごく一門が揃って出世をすることになる。
本田小松
忠勝の娘で後に家康の養子になる。性格は忠勝の娘らしくよくできたという声と豪壮すぎて嫁のなり手がいないんじゃないかという2つの声がある。上田合戦で完膚なきまでに叩かれた忠勝が真田を取り込むため真田信幸に、嫁がせる。関が原の合戦の時には舅昌幸と幸村と決別宣言をする一方で、その二人に自分の子供を会わせるなどの側面を持つ。信幸も彼女のことを信頼でしていて、安心して出陣をしていたという。
松浦鎮信
同姓同名の武将がいるが、こっちは4代目。父の遺言により平戸藩の家督を継ぐことになる。島原の乱の時には長崎の警備を担当して、大きな被害こそはなかったものの、その後の臨検で強大な兵力を持っていたことを知られてしまい平戸の閉鎖を余儀なくされる。これにより財政的な逼迫を味わうことになるのだが、新田の開発などで乗り切り九州一の善良政治と讃えられることになった。また数多くの文化人との交流もあり、そこから茶道の流派である鎮信流を生み出すことになる。
徳川吉宗
徳川8代将軍で、享保の改革を始めとした改革で幕府の財政を一時的に立てなおした。紀州藩二代目の四男として生まれる。本来であれば将軍職どころか紀州藩さえ継ぐことはできなかったのだが、兄2人と父の急死により家督を次ぐことになり、この事実から陰謀論が生まれるほど出来過ぎた展開といえる。紀州藩主時代に質素倹約を主とした改革を成功させ、さらに尾張藩主宗春との後継者レースも制して、本家血筋が絶えてしまった8代将軍として頂点に立つ。以後は紀州藩でした緊縮財政を全国で展開。享保の改革と呼ばれるそれは幕府の財政の引き締めを成功させる。が、質素倹約を主とした政策は住民にも重くのしかかり文化的停滞も招く結果に。さらに増税のよる苦しみから農民一揆が頻発する要因にもなった。長男家重を後継にして大御所として権力をふるおうとした時に、病気が発覚。壮絶な闘病生活が彼を待っていた。
その政策は苛烈すぎた一面もあり、数多くの反発を生むことになる。とくに尾張名古屋の宗春とは政策的にも相容れないものだった。その宗春をたたき落としたあと、いよいよ吉宗のほんとうの意味での天下と思われたのだが、代償はその江戸の方から覆いかぶさってくる。吉宗の重用配下1人だった老中はこの段階で失脚。さらに田沼意次と大岡忠相の重用により、緊縮政策が一気に破綻の奉公に向かってくる。さらに時代が下って行くと享保の改革を元にした改革が行われるも、享保の改革自体が強権に近い形での改革だっただけに、民衆の不満を抑えることができずいずれも失敗に終わる。吉宗の政策はある種の毒薬とも言えるわけで、今の経営に対する考えにも通じるところがあると思われる。
上杉鷹山
元々は日向高鍋藩の一族の出身。9歳の時につながりがある上杉家の養子になる。そのまま16歳の時に上杉家の家督を継ぐことになる。景勝依頼の伝統のせいで藩の財政は逼迫以上のもうどうしようもない寸前の状態に陥っており、藩政の返還まで考えていた上杉家の改革に乗り出す。とにかく倹約と出費の抑制に努め、家臣団もスリム化。その一方で。しかし改革そのものは一回実質的に失敗しており人口の流出を防げなかった。2回めの改革は1回めの改革をベースに色んな場面での改革を断行。その御蔭で借金を変えることに成功したのだが、借金の完済は死後になってからの事だった。その改革は後の指導者に大きな影響を与え、理想のリーダー像のひとりとして常に名前が上がってくる。
池田忠雄
池田輝政の息子で2代目姫路藩藩主。姫路宰相と呼ばれた父の跡を継ぎ領内開発に専念。しかし小姓が藩士に討たれるという事件が発生し、脱藩した藩士を旗本がかくまったことからその旗本との対立が起こってしまった。しかし31歳の若さで仇討ちの成就を願い(これをきっかけにして後継者が若すぎた池田家を鳥取に飛ばして、さらには問題の藩士の江戸追放と旗本に罰則を与えた飛ばして喧嘩両成敗を狙った幕府の思惑は忠雄の「上意討ち」の意志により完全に外れることになる)ながら亡くなってしまう。(一節には暗殺説も)この敵討ちは後に荒木又右衛門の力を得た被害者の兄によって成就され、後に三大仇討ちの一つとされる鍵屋の辻の決闘と呼ばれることになる。(ただしこの時の荒木又右衛門の36人切りは大嘘。実際切ったのは2人)
鄭成功
中国史上の人物だが平戸出身のため御登板。(革新・三国志11で唯一のダブル登場という意味合いで)7歳の時に父に連れられて平戸から福建省へ。宮仕えも開始するが、李自成が民を滅ぼしたことで各地に新政権が乱発。さらに李自成の軍が清によって滅ぼされると、亡命政府が北伐を敢行するも失敗。これで父親が清側に寝返ることになり、親子別れ別れになってしまう。鄭成功自身も北伐軍を起こすがこれも失敗。活路を台湾に求め現地いいたオランダ人を追放してまで、地盤を確保するがそこまで。そのまま台湾で息を引き取ってしまう。その後の抵抗も鄭成功の死にとって一気にしぼんでいってしまうが、中国台湾ではいまだに人気の高い人物のひとりとして扱われることが多い。
保科正之
福島だけではなく長野からも大河ドラマ要望が多いとされる人物。(福島はともかくとしても長野は真田太平記という前歴あり)秀忠の隠し子として保科家に養子として預けられる。秀忠の妻江姫の死の後にようやく親子の対面を果たす。しかし彼を気に入ったのは父親よりも兄弟。長男で3代将軍家光・その弟の忠長からも気に入られ、正式に保科家の家督を次ぐことになる。最初は信濃高遠だったが、出羽山形20万石に出世。さらには会津23万石にまで出生をする。さらに家光の今際の際に後を託されたことから、佐幕の中心としての立場が明確になる。その善政から江戸初期の三名君の1人と称されるが、それでも家光が作り上げた家康崇拝による借金はどうしようもなかった。
前田綱紀
4代目の加賀藩当主。3歳の時に父が急死したことにより前田家の当主となる。当然3歳ではなにもできないので成長するまでの間は他の人に任せていたのだが、祖父や正宗の息子、池田光政などに合わせたことから、精神面も鍛えられる。その祖父の死後、妻の父である保科正之の後見の元藩政改革に乗り出す。一定の成果を上げると共に、加賀藩の発展に力を尽くす。また幅広い学問を収めたことでも有名。徳川綱吉から御三家に匹敵するぐらいの格を与えられる結果にもなった。江戸時代の前記の三名君の一人といわれるのだが、その治世は80年にも及んだ。
徳川頼宣
家康の10男で、紀州徳川家の藩祖。家康の征夷大将軍就任後に生まれ2歳にはすでに水戸20万石の大名になる。初陣は大阪の陣。その後紀州家55万5千石に加増・転封をされ紀州藩の礎を作る。しかし由井正雪の乱で、うい小説が頼宣の印を偽造していたことから首謀者と疑われ10年間も紀伊から離れなければいけないなどの苦難も味わっている。家康直系の子孫なだけに、一門の長老格として威厳を出したかったのだが、官僚化していた将軍の配下達からはやや嫌われていた節もある。またやや苛烈な言動もあった。この苦難の末に出てきたのが孫の吉宗だった。(ある意味で言えば、7代将軍が死去した段階で秀忠系統は消えてしまったわけなんだし)
幕末・明治
大久保利通
維新三傑の1人で今の政治体系の一つである官僚制の構築に大きな貢献をした人物の1人。しかしその清廉潔白さは多数で大きな恨みを買うことになる。元々は薩摩藩士で内部抗争に敗れ一時期は貧乏に身をやつすことになる。復帰後は藩政に関わり、さらには京都の政治にも関わることになる。徳川慶喜の藩制訪韓に対しては王政復興の大号令で対抗し、徳川家の再登板を潰す。明治維新の後に征韓論論争で対立をしていた西郷隆盛・板垣退助などを押しつぶすなど政府の中で力を持ち続けていた。しかし不満を持った士族のカズが多すぎてそれらを抑えられなかったせいで、西郷などは抑えきれたものの最終的に石川県藩士による紀尾井坂の政変で暗殺されてしまう。死後残ったのは政治運用の時に残した膨大な借金で、功労者に対しての対応に政府が慌てたほどだった。
山内容堂
幕末の土佐藩藩主。多数の志士を生み出したことから名君といわれるのかと思うのだが、優柔不断すぎて実際の評価はかなり低い人物。先先代当主・先代当主が急死、さらに後継者が若すぎるということから、当時格が一番下だった容堂に山内家の家訓が回ってくる。それまでの家臣団を嫌い、吉田東洋を起用。革新的な政治を進めたことから幕末の4賢侯の一人として名前が上がってくる。現実問題土佐藩は抜けてしまった坂本龍馬以外にも後藤象二郎などの人物も出てくる。将軍の世継ぎ問題に敗れ一時期は表舞台から姿を消すも復活。しかしキーマンの一つとして数多くの志士が動くも破綻のせいもあり薩長に主導権を取られていく。トドメに容堂自身が部類の酒好きと大量の妾を抱え、さらに政治的な能力に関しても陰りが見えてしまった。結果的にこの酒が彼の命と家の運命を左右するになる。
斎藤弥九郎
剣豪でありながらその教育者ぶりで数多くの人材を排出してきた。越中生まれで一回は奉公に出るも挫折。江戸に出て武家屋敷で働きながら勉強していたところを、評価され各種の学問を受けることができた。さらに剣術も学びその腕の確かさから道場を継ぎ、さらに独立。幕末三大道場といわれるほどの盛況っぷりを生み出す。その後は同じ道場にいた江川英龍とともに、測量などに参加。台場の建設にも大きく関わることになる。また各地を回った関係から数多くの知り合いができ、それが維新にも大きく関わることになる。その立場故に命の危険もあったが、幕末を乗り切り明治に。晩年は明治政府の役人として大阪に赴任。造幣局の火事の時に、書類をとりに火事の中に突っ込んでいる。
佐々木只三郎
幕末の剣士。その苛烈さから坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺の可能性のある人物のひとりとして長上がっている。浪士組結成とともに京都に上るものの、その提案者を暗殺。さらには禁門の変へ出陣するなど新撰組と並ぶほどの恐怖を与えていた。坂本竜馬暗殺も元同僚ん証言から。その後の鳥羽伏見の戦いにも参加するが時代はすでに剣術の時代ではなくなっていて、腰に銃弾を受けて配送中の和歌山で死去してしまう。
毛利敬親
長州藩13代目藩主。父の死により18歳で藩主になる。各種の改革を行いこれが後に幕末に向けての大きな足かがりになる。しかし第一次長州征伐の影響で一時的に力を失うことになるが、高杉晋作たちのクーデターによって復活。高杉たちの部隊を整理して幕府に対抗できる戦力を持つことになる。王政復古の大号令の後に上洛。そこで明治天皇から左近衛権中将に命じられる。しかしここで役目が終わったと自覚したのか、すぐに山口に帰りさらには実質的な隠居生活へ。藩籍奉還の後、明治4年にこの世を去る。財政が傾いていたから質素倹約につとめ、また数多くの人材を排出したことを考えると名君と言われてもいいと思うのだが、その志士たちの活躍の中で目立たなかったのが最大の痛恨事か。
芹沢鴨
新撰組初代総長。元の名前は下村嗣司。尊王攘夷派の一因として資金集めに奔走するも、恐喝横行などで失敗。しかも捕まってしまうが、処刑はされずにすむ。その後江戸に出て浪士組の一員となり、さらに新撰組のメンバーとともに京都へ。新選組の前身をたちあげて内部抗争に打ち勝つ形で初代総長に。しかし振る舞いが乱暴すぎたことや、各所で問題を起こしたことが問題視され始め、お墨付きを与えた会津藩が暗殺を近藤たちに依頼。結果的に沖田・土方・原田達によって暗殺をされてしまう。
山本八重
2013年大河ドラマ主人公。会津藩の砲術師班の娘として生まれ、戊辰戦争の折には自ら銃を持ち前線で戦っていた。その時に最初の夫とは別れる形になる。(夫が行方をくらます)名字になり京都に移住。そこで出会った新島襄と結婚。後に新島襄は同志社大学を立ち上げる。夫婦仲はと勝ったものの八重自身の考えが当時としては進みすぎていたために、旧来の価値観とはまったく合わずに周辺から批判の嵐を浴びることになる。しかしそんなことにも臆することがなく、夫の死後に日清戦争・日露戦争では看護婦として前線にたった。皇族以外の女性で初めて政府から叙勲を受けた女性でもある。
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